心底呆れ、かつ、ガッカリした。東アジア杯のことではない。あれはせいぜい「軽い失望」ぐらいなもの。国内でプレーする選手たちの意地や下克上へかける思いといったものがあまり感じられなかったのは残念だが、この時期、この大会のために必死になれと言われても、選手としては難しかったのかもしれない。大丈夫。きみたちができなかったことは、海外組がやってくれるとも。
 だが、どれほど広い気持ちを持とうとしても、どうにも我慢ならない問題がある。新国立競技場に関する問題である。

 ここにきて、政府は各界のアスリートを呼んで懇談会を開いている。単なるアリバイ作りではないか、という声もあるが、アスリートの意見を取り上げようという姿勢自体は、政権に手厳しいメディアからも評価されているようだ。

 呆れるしかない。というより、招致プレゼンテーションで並べられた美しく胸を打つ言葉が、この国の信念から出たものではなく、単にうわべだけのものだったことを思い知らされる。
 五輪を招致することで、勇気づけたかったのは誰なのか。おもてなしとやらを提供したかったのは誰に対してだったのか。アスリート? もちろん含まれているだろう。だが、五輪とは参加する選手だけで成り立つものではない。そして、五輪を構成する最大のマジョリティーは、国民であり観客である。にもかかわらず、新国立をめぐる論議には、観客が何を望んでいるかという視点が完全に欠落している。

 五輪金メダリストの高橋尚子さんは、新国立への要望としてサブトラックの常設を訴えた。これがなければ、国体やインターハイが開けないからだという。なるほど、わたしが陸上競技の関係者であれば、同じことを訴えたかもしれない。

 だが、スポーツ観戦を愛する人間としては、まったく違く意見になる。
 なぜ、五輪を開催する会場の建設に際して、何十年かに一度しか回ってこない国体やインターハイのことを考えなければならないのか。言い方は悪いが、歌舞伎座に学芸会用の施設を盛り込むようなものではないか。

 フットボールを愛する人間としては、もっと違う意見になる。
 わたしの知る限り、首都にフットボール専用競技場のない国というのは世界的にも圧倒的な少数派である。なぜこの機会に、専用競技場を造ろうという声が高まってこないのか。サッカーは五輪においても華となる競技だが、世界中からやってくるファンに、トラック付きの競技場で観戦させるのが、日本ならではのおもてなしなのだろうか。

 わたしのような考えはあっさり黙殺されるほどに少数派なのだろうか。

 訪れた観客に、テレビでは味わえない感動や興奮を提供する。そして、その場所がいつか聖地となる。わたしが望むのは、そんなスタジアムである。

<この原稿は15年8月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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