そのとき野茂は雪山をバックに投げていた<後編> 〜二宮清純特別寄稿〜
95年1月、任意引退。2月、ロサンゼルス・ドジャースと契約。野茂の足を縛った「保留権」の前近代性については、新聞や雑誌で何十回と書いてきたので、ここでは繰り返さない。
許せなかったのは、大志を抱く若者の勇気ある行動を認めないばかりか、いたずらに貶めようとする球界の権力者たちの狭量である。
野茂の渡米直後、吉國一郎コミッショナー(当時)にいたっては「第2の野茂を出すな」と12球団に通達を出した。ところが野茂がメジャーリーグで活躍を始めると「日本のコミッショナーとして誇りに思う」と態度をコロリと一変させた。
「こういうのを掌返しというんでしょうね」
呆れたように野茂は語ったものだ。
忘れられないのはシンシナティ・レッズのロン・ガント(当時)の次の一言だ。
「メジャーリーグはキミに救われたよ。ありがとう」
95年のナ・リーグディビジョンシリーズ。ドジャースはレッズに敗れた。リバーフロント・スタジアムのロッカールームでの一瞬の出来事。
米国のジャーナリストを前に、ガントはさらに続けた。
「米国のベースボールプレイヤーたちは皆、ヒデオ・ノモに対し、感謝の気持ちでいっぱいなんだ。その気持ちを僕が代表して伝えただけさ。彼の活躍がなかったら(スト明けの)メジャーリーグは、もっと寂しいものになっていたはずだよ」
裏切り者から英雄へ――。
きっと、あの人もそうだったに違いない。
62年8月、小型ヨットで初めて太平洋横断を果たした堀江謙一さんである。
「無謀な挑戦」との批判の嵐の中を、青年は船出した。不法出国の事実を知ったこの国の法務省は、彼が西海岸に到着すると同時に「出入国管理法違反」で米国政府に身柄を拘束するよう要請した。
ところが米国の反応はまるで違っていた。サンフランシスコに到着するや否や、市民はもちろん、行政当局までもが青年を「英雄」として迎え入れたのである。
米国で「英雄」として扱われている日本人青年を、まさか本国が「犯罪者」として扱うわけにはいかない。
米国での熱烈歓迎ぶりを目の当たりにして法務省はコロリと態度を変えた。友好国である米国との摩擦を避けるため、出入国管理法違反などの起訴を見送ったのである。
それから33年後、歴史は再び繰り返されたのだ。
進退窮まった時、戦いを放棄した者には汚名が残る。うまく立ち振る舞った者には人生に消せないシミが残る。勇敢に立ち向かった者のみが名誉を手にすることができる。
闘争とはそういうものだ。
そして野茂英雄とは、そういう男である。
9年前の春のことだ。ニューヨーク・メッツを解雇された野茂はシカゴ・カブスの3Aアイオワ・カブスでプレイしていた。
「元気でやっているだろうか……」
心配になった私は国際電話をかけた。太平洋の向こうにいる野茂の第一声はやけに明るかった。
「いやぁ、いい景色ですよ。感動的ですよ」
聞けばツインズの傘下である3Aソルトレイク・バズと戦うためソルトレイクシティに来ているというのだ。世界各国で試合をやってきた野茂だが、さすがに雪山をバックに投げたのは初めてだという。
「ここは午後3時か4時頃になると太陽がかげっていくんです。すると山の影がくっきりと浮かび上がってきて、これがキレイなんです。しばらく見とれてしまいましたよ」
何と豊かな人生なのだろうと、話を聞いていて少々、羨ましく思ったものだ。彼は誰よりも野球を楽しんでいる。そして人生を楽しんでいる。それは今もかわらない。それだけは今も譲れない。
ただ、野球を楽しむには、そして人生を楽しむには「資格」がいる。それは戦い続けるということだ。
誰にも媚びない。
誰にもひるまない。
誰にも屈しない。
それが野茂英雄という男の生き方である。
人は齢を重ねれば丸くなる。摩擦を避け、人の間を縫うように生きるようになる。妥協と引き換えにかけがえのないものを失っていく。自分はいったい何者だったのか。何をやりたくて生きてきたのか。それに気がついた時には、もう遅いのだ。
復活の日は必ずやってくる。しかし、それすらも彼にとっては、きっと豊潤な人生の一部に過ぎないはずだ。
「こんな楽しい野球を、簡単に諦められるわけないじゃないですか」
そんな聞き覚えのある声が聞こえる。
(おわり)
(この原稿は2008年4月号『sportiva』に掲載されたものです)
許せなかったのは、大志を抱く若者の勇気ある行動を認めないばかりか、いたずらに貶めようとする球界の権力者たちの狭量である。
野茂の渡米直後、吉國一郎コミッショナー(当時)にいたっては「第2の野茂を出すな」と12球団に通達を出した。ところが野茂がメジャーリーグで活躍を始めると「日本のコミッショナーとして誇りに思う」と態度をコロリと一変させた。
「こういうのを掌返しというんでしょうね」
呆れたように野茂は語ったものだ。
忘れられないのはシンシナティ・レッズのロン・ガント(当時)の次の一言だ。
「メジャーリーグはキミに救われたよ。ありがとう」
95年のナ・リーグディビジョンシリーズ。ドジャースはレッズに敗れた。リバーフロント・スタジアムのロッカールームでの一瞬の出来事。
米国のジャーナリストを前に、ガントはさらに続けた。
「米国のベースボールプレイヤーたちは皆、ヒデオ・ノモに対し、感謝の気持ちでいっぱいなんだ。その気持ちを僕が代表して伝えただけさ。彼の活躍がなかったら(スト明けの)メジャーリーグは、もっと寂しいものになっていたはずだよ」
裏切り者から英雄へ――。
きっと、あの人もそうだったに違いない。
62年8月、小型ヨットで初めて太平洋横断を果たした堀江謙一さんである。
「無謀な挑戦」との批判の嵐の中を、青年は船出した。不法出国の事実を知ったこの国の法務省は、彼が西海岸に到着すると同時に「出入国管理法違反」で米国政府に身柄を拘束するよう要請した。
ところが米国の反応はまるで違っていた。サンフランシスコに到着するや否や、市民はもちろん、行政当局までもが青年を「英雄」として迎え入れたのである。
米国で「英雄」として扱われている日本人青年を、まさか本国が「犯罪者」として扱うわけにはいかない。
米国での熱烈歓迎ぶりを目の当たりにして法務省はコロリと態度を変えた。友好国である米国との摩擦を避けるため、出入国管理法違反などの起訴を見送ったのである。
それから33年後、歴史は再び繰り返されたのだ。
進退窮まった時、戦いを放棄した者には汚名が残る。うまく立ち振る舞った者には人生に消せないシミが残る。勇敢に立ち向かった者のみが名誉を手にすることができる。
闘争とはそういうものだ。
そして野茂英雄とは、そういう男である。
9年前の春のことだ。ニューヨーク・メッツを解雇された野茂はシカゴ・カブスの3Aアイオワ・カブスでプレイしていた。
「元気でやっているだろうか……」
心配になった私は国際電話をかけた。太平洋の向こうにいる野茂の第一声はやけに明るかった。
「いやぁ、いい景色ですよ。感動的ですよ」
聞けばツインズの傘下である3Aソルトレイク・バズと戦うためソルトレイクシティに来ているというのだ。世界各国で試合をやってきた野茂だが、さすがに雪山をバックに投げたのは初めてだという。
「ここは午後3時か4時頃になると太陽がかげっていくんです。すると山の影がくっきりと浮かび上がってきて、これがキレイなんです。しばらく見とれてしまいましたよ」
何と豊かな人生なのだろうと、話を聞いていて少々、羨ましく思ったものだ。彼は誰よりも野球を楽しんでいる。そして人生を楽しんでいる。それは今もかわらない。それだけは今も譲れない。
ただ、野球を楽しむには、そして人生を楽しむには「資格」がいる。それは戦い続けるということだ。
誰にも媚びない。
誰にもひるまない。
誰にも屈しない。
それが野茂英雄という男の生き方である。
人は齢を重ねれば丸くなる。摩擦を避け、人の間を縫うように生きるようになる。妥協と引き換えにかけがえのないものを失っていく。自分はいったい何者だったのか。何をやりたくて生きてきたのか。それに気がついた時には、もう遅いのだ。
復活の日は必ずやってくる。しかし、それすらも彼にとっては、きっと豊潤な人生の一部に過ぎないはずだ。
「こんな楽しい野球を、簡単に諦められるわけないじゃないですか」
そんな聞き覚えのある声が聞こえる。
(おわり)
(この原稿は2008年4月号『sportiva』に掲載されたものです)