「育成枠」が新設された2005年、北海道日本ハムは育成選手としてある一人の大学生を指名するはずだった。ところが、その選手は既に企業に内定していたため、直前になって回避された。育成ドラフトでは社会人内定選手は指名できないことになっていたのだ。スカウトも本人もそんな条件は寝耳に水だったが、時すでに遅し。結局、プロへの夢をかなえることはできなかった。ショックの余り、野球が嫌いになった彼は2年間、野球から遠ざかり、身を隠した。だが、2年間のブランクがあってもなお、彼の天性な打撃センスはプロの目に留まる。今年、中日が見つけたその逸材の名は小林高也、24歳。3年前の悪夢を乗り越え、今ようやくプロの切符をつかみとったのである。
―― 指名された瞬間は?

小林: 昔のこともあったので、「いけると思いきや、ダメかもな」と、あまり過大には期待していませんでした。それでも、育成だったらなんとかなるかも、という気持ちもあったんです。でも、育成1巡目に同じ外野手の加藤聡選手(大阪産業大)の名前が呼ばれた瞬間、「あれ、これはもしかしたら指名ないかも」と諦めかけていました。だから自分の名前が呼ばれた時は、ホッとしましたね。これでようやくプロにいけるんだと。

―― ご両親も喜んだのでは?

小林: そうですね。小さい頃からプロを目指してきて、ずっと両親は応援してきてくれました。一人っ子ということもあって、自分にかけていたところがあったんです。だから、僕が野球を辞めた時、本当にショックを受けていました。それだけに今回の指名は、すごく喜んでくれました。

―― 中日という球団については?

小林: 東京出身なので、小さい頃はヤクルトファンだったんです。だから当時は中日というと、敵という感じがありましたが、今は嫌なイメージは全くないですね。落合博満監督は、とにかく練習が厳しいと聞いているので、それに耐えられるように今もそれを想定したトレーニングをしています。

 東京経済大を卒業後、小林選手は内定していた明治安田生命に入社した。だが、やはり気持ちを切り替えることはできなかった。結果は出していたものの、野球に対する情熱は甦ることなく、3カ月後に退社を決めた。その後、野球のない生活を求め、一般企業に就職。そんな小林選手が、どのようにして野球界に復帰する気持ちになったのか。その経緯について訊いた。

―― 明治安田生命を退社したのは?

小林: 4月のはじめにはもう辞めたいと思っていました。いくら結果を出しても、「なんでオレ、ここでやってんだろうなぁ」と気持ちが入らない状態だったんです。それまでプロに行くことしか考えていなかったですし、野球も仕事もという生活がしんどかった。僕としてはどちらかに専念したかったんです。
 結局、退社したのは7月でした。それまでにいろいろあって、その時はもう野球から離れたいという気持ちでいっぱいでした。だから、野球のない一般企業に就職したんです。2年間は子供たちへの指導はしていましたが、自分がやることはありませんでした。

―― もう一度、野球をやろうと思ったきっかけは?

小林: 友人からクラブに誘われたのがきっかけです。最初は本当に趣味程度でプロなんて目指していませんでした。自分はもう終わったと思っていましたし、プロ野球の試合もほとんど観ていませんでした。それよりも指導者になろうと。自分の子どもをプロ野球選手にすることが夢になっていたんです。
 ところが、今年4月に中日のスカウトが僕のことを視察に来たんです。その時は、たいした練習もしていなかったですし、正直「なんでオレなの?」って感じで、スカウトに対してなんだか申し訳ない気持ちでしたね。でも、それでまたプロを目指す気になったんです。

―― 一般企業で仕事をしながらのトレーニングは厳しかったのでは?

小林: そうですね。仕事で疲れてから練習するのは、大変でした。仕事は毎日19時くらいまであったので、練習はそれからしかすることができませんでした。でも、幸いなことに自分が教えていた子どもの父親が自宅近くにバッティング練習ができるハウスをつくっていて、22時まではそこを自由に使わせてもらうことができたんです。だから、走ることと打つことに関しては十分に練習を積むことができた。これは大きかったですね。

 目指すはメジャーばりのフルスイング

 一見、遠回りと思える一般企業での社会人生活だが、小林選手にとっては野球に対する思いを再確認した非常に大きな3年間だったようだ。

―― 明治安田生命を退職した後の“空白の2年間”について。

小林: とにかく周りをシャットアウトしていました。両親以外とは連絡をほとんど取らなかったですね。「どうして野球を辞めたんだ?」とか「野球、やれよ」って言われるのが嫌だったんです。そうしているうちに、徐々に傷を癒すことができた。だからこそ、もう一度野球を始めることができたんだと思います。

―― 一般企業で仕事をしたことで得られたものとは?

小林: 就職してよかったと思っています。仕事の大変さを味わうことで、自分にとってどれほど野球が大切であるかを身にしみてわかりました。実は最初、仕事をなめていたんです。その頃の僕にとって、一番苦痛で嫌なものは野球だったので、仕事の方が楽だなぁと。
 ところが、いざやってみると野球と同じくらいプレッシャーはかかってくる。同じ怒られるにしても野球で怒られる方がまだいいと思ったんです。今年に入ってからは、仕事中でも野球がやりたくてやりたくて仕方ありませんでした。

 一度は閉ざされたプロへの道。苦難を乗り越え、ようやく挑戦権を得た小林選手は、いったいどんな選手を目指しているのか。理想とするバッティングについて訊いた。

―― 目標とする選手は?

小林: 日本では和田一浩さん(中日)や村田修一さん(横浜)。メジャーリーガーで昔、好きだったのはサミー・ソーサですね。現役ではA・ロッド(ヤンキース)。とにかくホームランで打点を稼ぐようなパワーヒッターが好きなんです。特にメジャーのバッターのあの迫力あるスイングには憧れますね。一発で球場全体を黙らせてしまう感じがたまりません。

―― 自分の最大の武器とは?

小林: 逆方向へのバッティングを得意としています。スカウトが来てくれた時も、逆方向に長打を打っているんです。飛距離も引っ張った時とかわりません。とにかく逆らわない。アウトコースに来たらライトへ、インコースに来たらレフト。そして真ん中はセンターへと広角にホームランを打つことができるのが自分の武器です。

―― ボールへのタイミングの取り方は?

小林: ほとんどはそのピッチャーの一番速い球に意識をもっていくようにしています。ストレートを待っていても緩い変化球には対応できるのですが、逆に緩い変化球を待っていてストレートが来ると差し込まれてしまうんです。

―― 対戦したいピッチャーは?

小林: 一学年下の上園啓史(阪神)とぜひ対戦したいですね。彼には大学時代にバットを折られているんです。他には藤川球児さん(阪神)やダルビッシュ有(北海道日本ハム)のストレートを打ってみたいです。

「為せば成る」が座右の銘という小林選手。逆境を乗り越え、チャンスをつかんだ彼にはピッタリの言葉だ。子どもたちにも頑張った先には必ず何かを得ることができることを伝えたいという。そのためにもプロでの活躍は必須。アピールポイントである“フルスイング”で、まずは支配下登録を目指す。

<小林高也(こばやし・たかや)プロフィール>
1984年2月26日、東京都出身。小学校時代にはエースとして全国大会3位、中学時代には調布シニアで全国制覇を成し遂げた。新潟明訓では2年秋に野手に転向し、3年春からスタメン入り。東京経済大学では通算13本塁打を放ち、プロアマ交流試合では原辰徳監督(巨人)の前でプロの球をスタンドへ運んだ。確実視されていた2005年のドラフトで直前に回避されるというショックな過去を乗り越え、今秋、東京弥生クラブから育成枠で中日に指名を受け、3年越しにプロへの夢を叶えた。180センチ、85キロ。右投右打。

(聞き手・斎藤寿子)

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