「アーユー、ボディビルダー?」
 こう言ってビル・ロビンソン先生は、鏡の前でボディビルダーのように胸を張っておどけてみせた。

 今から20年前の話である。Uインターの立会人を務めていたロビンソン先生は、年に何度か来日していた。前述の言葉は、道場でウエイトトレーニングばかりに精を出していた僕に対する風刺のきいたジョークだったのだ。

 往年の名レスラーたちは、僕がバーベルを持った練習をしていると、あまり良い顔はしなかった。「レスラーなのだから、レスリングの練習をしなさい」ということなのだが、若かった僕は見栄えが良くなる筋トレに夢中だった。

 この頃のロビンソン先生は、ヒザが悪いながらも動けたため、ニック・ボックウインクル選手とエキシビジョンマッチを行えるほどであった。この一戦が日本での最後の試合となるのだが、シビアな格闘スタイルがやりたい若手は、レトロなプロレスのマッチメークには正直、批判的であった。

「宮戸(優光)さん、ひとりの趣味じゃん」
 マッチメーカーをこう揶揄する者もいた。その考えに同調していた僕も、試合にあまり興味がわかなかった。アントニオ猪木vs.ロビンソン戦などを見ていた世代ではなかったことも影響してか、クラシックなスタイルを今さらUインターのリングで行なう意義を見出せなかったのだ。

 Uのリングでは、カッコイイ体をしたレスラーが、ボクサーのような軽快なフットワーク、それにムエタイを思わせる速いミドルキックなど、既存のプロレス団体では見られない動きを披露する。これこそ、ファンに求められていることだと思っていた。当時の僕は、派手でお客さんが喜びそうな表面的なことばかりに目を向けていたのである。

 そうなると筋トレや打撃練習が多くなってしまうのは必然だ。もちろん、グラウンドのスパーリングもメニューには入れているものの、ロビンソン先生からみると、やっているうちには入らない程度だった。

 そんな僕たちを見かねたロビンソン先生は、ある時、自らリングに上がり、レスリング指導にあたってくれたのである。
「こんな入り方は見たことない!」
 選手たちに衝撃が走った。

“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”と呼ばれるヨーロッパ伝統のプロレスに触れた時のことは今でも忘れられない。ロビンソン先生は“蛇の穴”と恐れられたビリー・ライレージム出身で、あの“プロレスの神様”カール・ゴッチ氏と同門なのである。本物のレスリングに出会った僕たちは、まるで子どものように目を輝かせ、先生に手ほどきを受けたのであった。

 この中には、後のPRIDEで、グレイシーハンターと呼ばれ、大活躍をした桜庭和志選手、同じくPRIDEで吉田秀彦選手を大いに苦しめた田村潔司選手、ドン・フライ選手と死闘を演じた高山善廣選手、UFCジャパンのベルトを巻いた山本喧一選手など総合格闘技界の卵がいた。彼らもロビンソン先生の関節技マジックの虜となった。

「もっと教わりたい」
 こう思った僕は、会社に志願し、ロビンソン先生のいるアメリカ・テネシー州へと旅立ったのである。

「壁を使ってブリッジの練習をしなさい」
 ランカシャー・スタイルの特徴は、サブミッションだけではなく、スープレックスにある。その基本であるブリッジをロビンソン先生は重要視していた。
 
 ブリッジ練習のやり方だが、まず壁に体をピッタリつけたところから、一足半だけ足を前に出す。そして、うしろに体を反らせ、両手で壁をつたいながら、地面までペタペタと体を下ろしていくのである。これを何度も繰り返すのだ。

 うしろに体を反らせるのが苦手だった僕も、この練習を繰り返すと美しいブリッジを手に入れることができた。おかげで綺麗に弧を描いたフロントネックチャンスリーという技もできるようになった。

 アメリカでの練習パートナーだったビリー・スコット選手とは、毎日、“ロビンソン教室”で汗を流した。1~2カ月間、アメリカで練習しては帰国し、試合をする生活を僕は続けた。海外で、こんなに長い期間、直接指導してもらった日本人選手はそうはいないだろう。

 だが、それを活かしきることができたかと問われると、残念ながらイエスとは言えない。アマチュアレスリングの基礎を知らない僕は、その複雑な応用編についていけなかったのだ。

 もちろん毎日、先生に指導されたことを忘れないよう、ノートにメモするなど復習には余念がなかったが、それを体に覚えこませるまでにはいたらなかった。僕は、完全に落第生だったのである。

 ロビンソン先生の代名詞は、“人間風車”と呼ばれたダブルアームスープレックス。だが、実際に教わったのは、サブミッションホールドに入るまでの幾通りもの流れであった。

 これはとても地味であり、試合で喝采を浴びる派手なムーブではなかった。若かった僕は、このようなお客には伝わりにくいレスリングより、また次第に派手な打撃技に傾倒していったのである。

 レスラーなのに本物のレスリングをマスターしなかったことを心から恥じている。今、振り返っても本当に情けなく、残念で仕方がない。先生の訃報を聞いた日、あの頃の無様な自分を思い出し、二重に胸が苦しくなった。

 ただ、後悔ばかりしていても何も始まらない。僕は、現在進行形の“昆虫ヒーロー”ミヤマ☆仮面のステージショーで、この経験を生かすべきだと頭を切り替えている。

 どのジャンルであっても、基礎をやらないで派手なパフォーマンスにばかり走ってはいけない。人には伝わりにくい地味な部分こそ本質があり、そこに目を向け、極めていかなければと思うのだ。

 ミヤマ☆仮面は、森に生きる土壌生物にまで心を配り、里山の重要性や地球環境問題を子どもたちにしっかりと伝えていかなければならない。そのためにも森づくりや地道なフィールドワークを気の遠くなるくらいの時間をかけてでも積み重ねていくべきだ。

 死ぬまでレスリングの情熱を絶やさなかったロビンソン先生の教えを無駄にしないためにも、僕もひとつの道をひたむきに歩き続けたい。心からロビンソン先生のご冥福をお祈りします。

(このコーナーは毎月第4金曜日に更新します)
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