「力道山の孫が、プロレスデビューしたようですね」
 普段、プロレスの話題など全く口にしない方から声をかけられた。12月16日、力道山の孫にあたる力(ちから)選手のデビュー戦が後楽園ホールで行なわれた。この試合は、プロレスに興味のない人たちからも大きな注目を浴びた。

 さすが戦後最大のスーパースターの孫である。僕は当然のことながら、力道山をリアルタイムでは知らない。そのためプロレスに身を投じても、力道山は歴史上の人物のような遠い存在であった。その距離がぐっと縮まったのは、全日本プロレスのリングに上がるようになってからだ。

 かれこれ十数年前の話である。日本最古のベルト「アジアタッグ」を長井満也選手と腰に巻いたことで、オールドレスラーに意識が向くようになったのだ。

 このベルトの歴史を調べてみると第3代の王者に力道山の名前が入っていた(豊登とのタッグ、ちなみに僕は第69代)。ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんもこのベルトを巻いたのは知っていたが、力道山までもタイトルを獲得していたのには正直驚いた。調べてみると延べ4回もこの王座に輝いていた。

 ただ、この時代、王者の証はベルトではなく、トロフィーだったようで少し残念である。僕にとっては、アジアタッグのベルトが初戴冠ということもあり、自宅まで持って帰るほどの入れ込みようだった(基本的にベルトは会場から持ち出せないが、会社から特別に許可を貰い、自宅に持ち帰ったのである)。

 全日本プロレスの頃、力道山のご子息である百田光雄選手とは接点はあったが、業界の大先輩ということもあり、このベルトの歴史について話したことはなかった。もっと、いろいろと聞いておけばと今更ながら後悔している。

 百田選手は選手としてだけではなく、馬場さん亡き後は全日本プロレス中継の解説も担当していた。僕の試合でのフォローの言葉がいつもうれしかった。馬場さんの解説が辛口だっただけに余計にありがたく感じたのを今でもよく覚えている。

 百田選手は「6時半の男」と呼ばれるほど前座を務める時代が長かったこともあり、スタイルの違いにもがき苦しんでいる僕の立場になって試合を見てくれていたのかもしれない。全日本の生え抜きの人たちは、U系出身の僕に対してアレルギー反応のようなものを起こしていたが、百田選手だけは違っていた。

 そんな心の広い百田選手からは今でも年賀状が届く。いただく年賀状には決まって力道山の写真が入っており、これが実にカッコイイのだ。

 僕は現役中、池上本願寺にある力道山のお墓に一度も訪れたことはなかったが、50回忌にあたる昨年、やっとお参りする機会に恵まれた。実は、案内してくれたのは、力道山の奥様である田中敬子さんだ。

 奥様の車に乗せていただき、直々に連れて行ってくださったのである。車中では、自宅での様子など、たくさんの話を聞かせてくれた。

 特に興味深かったのは、現役のレスラーでありながら事業家としての一面を持っていたところだ。僕の住んでいる相模湖近郊には、相模湖ピクニックランド(現プレジャーフォレスト)という遊園地があるが、その土地は力道山がゴルフ場にしようとしていたのである。

「(ゴルフ場の)工事をしている現場には、何度も一緒に足を運んだのよ」
 奥様は、この話題を切り出した僕へ当時のことを話してくれた。

 工事現場では、時に力道山も機械を操って作業を手伝ったともおっしゃっていた。残念ながらあの悲運な出来事があったため、ゴルフ場は日の目を見ることなく売却され、遊園地へと変貌を遂げたのであった。

 山に囲まれたネイチャーな遊園地は、昆虫ヒーロー・ミヤマ☆仮面にとって、うってつけの場所であったため、昆虫バトル「クワレス」の旗揚げ場所に選んだのである。偶然とはいえ、「プロレスの父」と呼ばれる力道山のゆかりの場所で、昆虫のプロレスである「クワレス」をスタートできたのは何かの縁を感じる。少々こじつけかもしれないが、力道山がプロレスを世に広めたように、僕もクワレスを日本中の子どもたちに浸透させられる気が不思議とするのだ。

 実際、今年に至っては名古屋や大阪、福岡などでクワレスをお披露目できた。関東だけではなく、どんどんその輪は全国に広がっている。

 もしかしたら、その思いこみが良い方向に動いているからなのかもしれない。絶対にやれるのだと自分を信じ、それをやり続けることが大切である。

 その意味では、プロレスリング・ノアで挫折し、それでもレスラーになる夢を諦めずに頑張った力選手はアッパレだ。
32歳と遅咲きのデビューではあるが、今後がとても楽しみである。

 力選手は、父の百田選手を心から尊敬している。百田選手も力道山に対して、同様の思いを抱いていた。それが表面的なものではないのは、フェイスブックなどでの力選手の発言を読んでみるとよくわかる。こんなに仲良し親子が他にいるのかと感心するほどである。僕は父との楽しい想い出など皆無に等しかっただけに羨ましい。

 つい先日、仲良しの秘訣を力選手に聞いてみた。
「父は、プロレスには厳しくて、怒るべきところではしっかり怒ってくれるのですが、それ以外はとにかく大事にしてくれます。趣味が同じなので、いつも一緒に楽しんでいます」


 なるほど! 同じ趣味や共通項を持つことも、良い関係づくりには大切なのである。それが父の仕事へのリスペクトにもつながり、レスラーの道を諦めずに志した原動力となったのかもしれない。

 これからも力道山の孫というプレッシャーはついてまわると思うが、日本初の3世レスラーとして、ぜひとも大輪の花を咲かせてもらいたい。プロレスを日本に根付かせた力道山の遺伝子を持つ男の将来が本当に楽しみだ。

(このコーナーは毎月第4金曜日に更新します)
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