「垣原さん、僕の試合の時に一緒に入場してもらえませんか?」
 かつて新日本プロレス時代に同じ本隊で共闘していた成瀬昌由選手からこのような要請があった。

 成瀬選手は、2006年に新日本プロレスを退団してから一度も試合を行なっていない。そんな彼が沈黙を破り、7年ぶりに上がるのはプロレスではなく総合格闘技の舞台であった。
元々、前田日明選手の立ち上げたリングスでデビューしたこともあって、総合の方が肌にあっているのかもしれない。

 しかし、年齢は今年で40歳。しかも総合での試合が10年ぶりというのが気がかりだった。それに今回の試合は、グローブを装着しない素手で殴りあうルールなのである。

「前田さんに試合をすると伝えたら、“おまえ、アホか”って怒られましたよ」
 成瀬選手は、こう言って受話器越しに笑っていたが、前田さんでなくても反対して当然だ。

 年齢や久しぶりの試合という点もさることながら、対戦相手が『関節技世界一』といわれる強者の菊田早苗選手であればなおさらだ。復帰戦で百戦錬磨の男とケージ(金網)で闘うなんて、無謀としか思えない。しかも素手だけでなく、肘攻撃や踏み付けもありという過酷なルールなのだから危険極まりない。

「僕は、伊達や酔狂でこのルールを選んだのではなく、ブランクのある自分が菊田選手を相手に少しでも勝つための戦略として、グローブより素手だと思ったんです」
 つまり、成瀬選手自身は、冷静に分析した結果での選択であったというのだ。

「それと……自分自身に嘘をつき続け、ファンを裏切って来たことへの贖罪として、どうせやるなら思いっきりアクセルを踏んでリミットを振り切ったことをやろうと決意したんです」

 過酷な試合に出るのは、償いの意味も込められていた。歴史が好きな成瀬選手の言葉を借りれば、切腹するほどの覚悟で臨むのである。驚きとともに、ここまで本音で語ってくれたことが嬉しかった。僕はこれらの話を聞き、彼の試合を絶対に見届けなければならないと強く思った。

 10月27日、場所はディファ有明。菊田選手の総合格闘技ジム「GRABAKA」が主催するこの大会は、昼間にアマチュアの試合があり、プロの試合は5時からのスタートであった。

 客席で試合を見ていた僕は、メインの菊田戦まで、あと2試合というところで控え室へと向かった。ナーバスになっていることが予想されるだけに少々気が重かったが、思い切って扉をノックした。

「垣原さん、中へどうぞ! よかったらセコンド全員でこのTシャツを着て入場してください」
 明るいトーンの口調で、成瀬選手自らが中に招き入れてくれた。とてつもない緊張感に包まれていると思いきや、控室の中はリラックスムード。こちらが調子抜けするほどだった。

 考えてみると久しぶりの試合とはいえ、成瀬選手は20年以上のキャリアを誇るベテランである。かつて、大晦日の試合「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」では、K-1の大巨人、ヤン・ザ・ジャイアント・ノルキヤ選手を破ったこともあり、大舞台に物怖じすることもないのだ。

 今回、成瀬選手のセコンドには、「世界のTK」こと高坂剛選手をはじめ、山本宜久選手、長井満也選手、金原弘光選手、山本喧一選手、伊藤博之選手と元リングスの選手が勢ぞろいした。
「リングス出身じゃないのは、オレだけじゃん」
 僕は周りを見渡し、苦笑いした。

 しかし、和やかな雰囲気もここまでであった。メインイベントの煽りVTRが会場で流されると一気に緊張感が高まった。

「うお~~! うお~~! うお~~!」
 突如、成瀬選手は大声を張り上げて、迫りくる恐怖を打ち消そうとしていた。いくらベテランといえども、何もない拳での初めての試合は不安なのだろう。

 僕たちは全員で円陣を組み、士気を高め、彼を戦場へと送り出した。ケージに入る直前、成瀬選手はセコンドの一人一人と固い握手をした。

 この時、成瀬選手の目を見て、僕はハッとした。覚悟を決めた男の目をしていたからだ。
「これは試合などではなく、果たし合いだ……」
 少し大袈裟だが、これから殺し合いを行なうような、そんな雰囲気さえ感じたのであった。

 ゴングが打ち鳴らされるとピリピリとした緊迫感が会場を支配した。まるで真剣を手にしたような、何ともいえない張り詰めた空気にセコンドの僕でさえ、その場から逃げ出したいほどであった。あの薄いグローブがないだけで、こんなにも違うのである。

「危ない!」
 一発のパンチが命取りになるだけにジャブすらもハラハラする。うまく打撃をかわすとすぐさま組み合ったものの、やはりケージの使い方を熟知している菊田選手が、テイクダウンさせて上をキープした。

 何とか反撃の糸口を見つけたい成瀬選手ではあったが、マウントをとられてしまい、上からむき出しの拳や肘の洗礼を受けた。頭蓋骨を叩く音が、セコンドのいるところまで聞こえてくる。僕は、自分が殴られているような錯覚にとらわれ、声が出なくなった。

 最後は、菊田選手の得意の関節技、腕ひしぎ逆十字が見事に決まった。試合タイムは、2分25秒。終わってみれば菊田選手の完勝であった。

 やはり、ブランクを埋めることは容易ではなかった。幸い両者ともに大きな怪我はなくホッとしたが、一番近い場所で試合を見届けた感想としては、拳での闘いは、やはり危険過ぎると感じた。

 闘った本人は、どう思ったのだろうか? 「あまり綺麗ごとは言いたくありませんが……」と前置きした上で、成瀬選手は今回のルールの試合の感想を述べてくれた。

「やった人間として矛盾しているかも知れませんが、このようなルールは簡単にやるべきではないと思います。やるとしたら最低限として、格闘技を野蛮なものとしてではなく武道として捉え、武を道として考え、しっかりと心技体を修める覚悟のある者同士が同意の上で闘うべきだと思います」

 真剣に闘った者だからこそ言える言葉である。素手での闘いには、ファンにも賛否両論あるだろう。ただ、道を極めた2人のスリリングな激突は、闘いの原点を見るようで魔性の輝きに満ちていた。

(このコーナーは毎月第4金曜日に更新します)
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