巨人、横浜で主にトップバッターとして活躍し、メジャーリーグ挑戦を希望していた仁志敏久が米独立リーグのランカスター・バーンストーマーズでプレーすることが決まった。「国内では、とりあえず終わりということで一線を引きたい。アメリカに行くのは、今まで自分がやっていなかったことで、先に生きると考えたから」。昨年末、当HP編集長・二宮清純のインタビューに対し、仁志はそう渡米の目的を語っていた。米国を野球人生最後の土地に定めた今、もう彼の華麗な守備や思い切りのいい打撃を国内で見ることはできない。あらためて仁志敏久とは、どんな野球人なのか。二宮本人が迫った。
「どうしても現役を続けたいという気持ちはない。先々のことを考えれば、最後はアメリカでやりたいという気持ちもありますが、アメリカのキャンプが始まってしまえば、それも現実的な話ではなくなる。2月中旬から3月、それが現役続行か引退かを決めるタイムリミットになるでしょう」

 こちらが驚くほど仁志敏久はさばさばしていた。
 ルーキー時代、「ビッグマウス」と呼ばれた男の面影は微塵も感じられなかった。
 昨年9月、工藤公康(現西武)らとともに横浜から戦力外通告を受けた。早い話がクビである。
 ショックはないのか。

「今、38歳ですけど、よくよく考えたら、これからの人生の方が長いんですよ。いつまでも野球にしがみついているわけにはいかない。いずれは社会に出ないといけないわけだから。
 プロに入って14年、通算ヒット数が1591本ですか。まぁ胸は張れないにしても……」
 いや、十分胸が張れる数字だと話を引き取ると、「一応、下は向かないで済みますかね」と言って小さく笑った。

 身長171センチ、体重80キロ。プロ野球選手としては極めて小柄である。しかも童顔。背広を着て歩いていれば、丸の内辺りにいそうなサラリーマンだ。
 それが長きに渡って巨大戦力・巨人の核弾頭として活躍し、2度の日本一に貢献したのだから、やはり彼はただ者ではなかった。

「社会人野球からプロに入る時、まわりからこう言われました。プロに入ってみたら意外にも、“こんなものか!?”って思うよ、と。
 しかし、僕は“こんなものか!?”って思えなかった。松井秀喜(現エンゼルス)がいて広沢克実さんがいて、僕の2年目には清原和博さんが西武から移ってきた。入ったチームが悪かったのかもしれない(笑)」

 1996年、日本生命からドラフト2位で巨人に入団した。いわゆる逆指名だ。3位には1、2番コンビを組む清水隆行(後に崇行)がいた。
 監督は長嶋茂雄。仁志には即戦力内野手としての期待がかかった。
 仁志は前年、引退した原辰徳の「背番号8」を受け継いだ。球団の期待の大きさが窺われた。

 この3年前、巨人の監督に復帰した長嶋は攻撃野球を標榜していた。仁志は長嶋が理想とする野球を実現するための「貴重なコマンド」だった。
 では長嶋は具体的にどんな野球を目指したのか。
 ――長嶋さんは前回の監督時代、サードランナーとの間でヒット・エンド・ランを成功させたことが何度かあります。そういう作戦もありだと?
 当時、私の質問に長嶋はこう答えている。

「ええ、そうです。ややもすると“セオリー無視の作戦だ”と非難を浴びることになりますが、セオリーとは人間社会が作ったものですから、時代とともに変わるはずです。何十年もそれにどっぷりつかっていればいいというものではない。
 第一、ファンの皆さんも、そんなものに飽き飽きしているわけでしょう。たとえばランナーが出たら、はい送りバント、という3歳の子供でもわかるようなパターンが野球界にははびこっています。
 だけどバンドだって、最初から犠牲バントとしてあったわけじゃない。僕が聞いたところでは、1940年代、インディアンスのある監督が、鈍足の選手をどうにかして先の塁に送るために編み出したのがバントで、その選手を走らせてから、打者も自分が生きるためにバントしたそうです。いわゆるバント・エンド・ランですね。
 それが次第に犠牲バントに変わっていった。ところが日本の野球はバントに常に自己犠牲の精神を求めるでしょう。これはイメージ的にもよくない。個性を殺すような采配は避けたいですね」

 仁志が「ビッグマウス」と呼ばれたのには理由がある。
「プロでやる自信はありますか?」
 こう聞かれると大抵のルーキーは「精一杯、頑張ります」と応えるものだ。
 ところが彼は「自信がなかったらプロに入っていませんよ」と過剰に反応してしまうのだ。
<しかもバットはぶん投げる、ヘルメットは叩きつける。今思えばとんでもないルーキーです。しかし、長嶋監督はこれを止めようとは一度もしなかった>(自著『プロフェッショナル』より)

 仁志はバッティングにも自己主張があった。体こそ小柄だが、大学時代から「強い打球を打つこと」にこだわってきた。
「打球が外野フェンスまで飛んでも落ちずに、そのままガツンと当たるような打球。それを理想にしてきました」
 長嶋も仁志の主張を受け入れた。「体に合ったバッティングをしろ」とはひと言も言わなかった。
「長嶋さんには本当にかわいがってもらった。印象? ひと言で言うと、とにかくおもしろい人だった」

 こんなエピソードがある。当時、巨人には杉山直樹という、いわば“第3のキャッチャー”がいた。
 キャッチャーを交代させる場面で、長嶋は主審にこう告げた。
「アンパイア、キャッチャー矢沢!」
「矢沢? ハァ?」
 ベンチから声が飛ぶ。
「監督、違いますよ」
 しかし、それに動じるような長嶋ではない。
「だから矢沢だ!」
「え? え?」

 V9時代後半、巨人には矢沢正というキャッチャーがいた。森昌彦(後に祇晶)、吉田孝司に次ぐ存在で、主にベンチを温めることが多かった。
 おそらく長嶋の左脳には第3のキャッチャー=矢沢とインプットされてしまったのだろう。
 長嶋の恐るべきところは一度、左脳に刻んだ記憶は、絶対に改めないことである。雨が降ろうが槍が降ろうが第3のキャッチャー=矢沢なのだ。

 仁志は続ける。
「当時、トレーナーに萩原宏久さんという人がいました。皆、“ハギさん、ハギさん”と呼んでいるのに長嶋さんだけ“オギワラ”でずっと通したんです」
 萩原と荻原。字も似てはいるが、それは問題の本質ではない。
 長嶋にとっては一度「オギワラ」と“命名”した以上、その人物は「オギワラ」であらねばならないのだ。

 ただ、次のような場合は困る。当時、巨人には川口和久と阿波野秀幸とう左のリリーフがいた。
 ある時、審判に向かって長嶋は言った。
「ピッチャー交代、ピッチャー、アワグチ!」
 審判が遠慮気味に聞き直した。
「あのォ監督、阿波野ですか、川口ですか?」
「そう、アワグチですよ」
 長嶋にとってアワグチは川口だった。そして阿波野もまたアワグチだった。

 かくいう仁志も清水にしょっちゅう間違われていた。顔も違えばポジションも違う。何より仁志は右打ちで清水は左打ちなのだが。
「これは清水に聞いた話ですが、打席に入っている僕に向かって“おう清水はどうの、こうの”と言ってたと言うんです。入団した年が同じだったので一緒くたになっちゃったんでしょうか……」

(後編につづく)

<この原稿は2010年1月30日号『週刊現代』に掲載されたものです>