プロ入り1年目、仁志はトップバッターに定着し、打率2割7分、7本塁打、24打点、17盗塁の好成績で新人王に輝いた。
 2年目は10本塁打、3年目は11本塁打とホームラン数も2ケタに伸ばした。
 しかし仁志には「野球が大きい」という批判がついて回った。初球から打たず、もっとピッチャーに球数を投げさせて四球数を増やすような打者を目指せ、という指摘である。
 例えば1年目の96年、仁志は37の四球を選んでいるが、同じトップバッターでも広島の緒方孝市(現広島野手総合コーチ)は61も選んでいる。
 ルーキーの年、キャンプ地の宮崎で私は仁志にこう訊ねた。
 ――どんなバッターを目指すのか?
「積極性のあるトップバッターになりたい。理想は元タイガースの真弓明信さん(現阪神監督)ですね」
 1985年、真弓は阪神の日本一に貢献した。トップバッターとして打率3割2分2厘、34本塁打、84打点。文字通りの核弾頭だった。
「もうひとり憧れたのが広島の緒方孝市さん。同じ右打ちで、バッティングのスタイルも似ていた。一緒に試合をしていても常に気になるバッターでしたね」

 常総学院、早大、日本生命というアマチュア野球のエリートコースを歩む中で、仁志はずっと打線の中軸を担ってきた。体の小ささをコンプレックスに感じたことはない。
「この体で人より大きなホームランも打ってきましたからね。“(大きい連中に)絶対負けない”という気持ちを持っていれば、負けることはないと思っていましたよ。1番になっても、そういうストロング・スタイル的なものはずっと持っていましたから」

 ストロング・スタイル――。これはプロレス用語である。プロレスファンである仁志らしい言葉遣いだ。
 かつてアントニオ猪木が自らの“過激なプロレス”に付けた代名詞だ。
 小柄でも小細工をせず、あくまでも正統派のスラッガーを目指し、それなりの結果を出してきたという自負が「ストロング・スタイル」という言葉に凝縮されていた。

 キャリア・ハイはプロ入り5年目、2000年のシーズンだ。
 仁志は打率2割9分8厘、20本塁打、58打点という好成績で巨人の4年ぶりのリーグ優勝、6年ぶりの日本一に貢献する。
「1番バッターとして自分も重量打線の一角を担っているんだというプライドと居場所があった。そう居場所があったんですよ」

 ON対決と称されたダイエーとの日本シリーズ、仁志は守備でも活躍した。
 1、2戦を落とし、敵地・福岡での3戦目。2回に3点を先制しながら、その裏に3点を返され、なおも2死二塁のピンチ。
 巨人のピッチャーはエース上原浩治。ダイエーのバッターは左打ちで俊足好打の村松有人。
 カウント0−2。ストレートで確実にひとつストライクを取る場面だ。当然、村松もそう読んでいるはず。
「多分、村松はイチ・ニ・サンのタイミングでストレート系のボールに狙いを絞っているはず。そうなると強い打球が一、二塁間にくるだろうと思い、一、二塁間の深めにポジションを取ったんです」

 仁志の読みどおりだった。一、二塁間を襲う強烈なゴロに飛びついた仁志は間に合いそうもないファーストに投げる振りをして二塁ランナーにサードを回らせ、ホームを狙わせた。
 仁志の送球はツーバウンドしたがランナーは本塁で奮死。このファインプレーがダイエーに傾きかけていた流れを変えてみせたのである。

 順風満帆だった野球人生が暗転するのは監督が長嶋茂雄から原辰徳に代わった2002年である。
 新たな打順である2番がフィットせず、不振にあえでいた。左脇腹の故障が追い打ちをかけた。
 03年には2軍落ちし、腐りかけたこともあった。ジャイアンツ球場には同じく2軍落ちした桑田真澄の姿があった。

 ある日、仁志は桑田に弱音を吐いた。
「桑田さん、(僕なんか)もういいっすよ」
 投げやりな気持ちになっていた。
 次の瞬間、仁志の目を見ながら桑田は言った。
「オマエなぁ、人生いつ何が起こるかわからないから頑張っておけよ」
 この時はまだ桑田が何を言いたいのかよくわからなかった。単なる慰めくらいにしか思えなかった。

 そのオフ、原は「解任」され、堀内恒夫が新監督に就任した。堀内は「仁志をもう一度、1番で使う」と言明した。その時になってやっと桑田の言葉が理解できた。
 前出の自著で仁志はこう書いている。
<人事を尽くさなければ、天命は待てない。待つ権利がないのです。どんな境遇でもとにかく必死に頑張る。その先にどんな結果が待っていても、おそらく終わった時に納得することができるのだろう。今の私にはそれがよく理解できるのです>

 07年にトレードで巨人から横浜へ。4位、6位、6位と辛酸を舐めた。
 一昨年、右打者最高打率となる3割7分8厘で首位打者を獲得、昨年はサムライジャパンのWBC連覇にも貢献した内川聖一からこんな話を聞いたことがある。
「実は考える野球というのがわかってきたのは、ここ1〜2年なんです。それは仁志さんから学んだんです」

 横浜にやってきた仁志は内川に「考えて野球をやれ」と言った。
 首をかしげて内川は答えた。
「考えるということ自体がわからないんです」
 再び仁志。
「考えるっっていうことは、要するにあとでプレーについて聞かれた時、こうしようとしたから、こうなりましたって順序立てて説明することなんだよ」

 仁志は横浜の練習に対して違和感を持っていた。
「例えばランダウンプレー。ランナーが二塁にいるとする。ピッチャーがゴロを捕り、セカンドに投げる。セカンドはダーッとランナーを追って行ってサードがタッチしてはい、終わり。1回でアウトにしなければならない。
 ところが横浜ではセカンドがサードに投げ、今度はボールを捕ったサードがランナーを二塁方向に追いかけ、セカンドがタッチしてやっとアウトということが何度かあった。これではランダウンプレーの意味がない。
 これは内川にも言ったことですが、プレーひとつひとつの成功した理由、失敗した理由の全てを説明できないと、プレーをしたことにならないんだよと」

 高校時代から野球漬けの日々を送ってきた。仁志に言わせれば、「学校は付属品」。それだけに「野球に育てられた」との思いは殊の外、強い。
<これで野球が身近になく、スポーツもしていなかったら、ただのならず者、すなわち不良の道へ進んでいたかもしれません。よく母親に言われました。「お前は野球をやっていなかったら、どうしようもない不良だったろうね」と>(自著)

 いずれ指導者の道を歩むことはあるのか。
 一呼吸置いて仁志は答えた。
「僕、最近思うんですけど、本当にやりたいことは逆に付属品として考えないといけないんじゃないかって」
 ――余裕があった方が、本当に好きなことができると?
「そうです。自分の正規の職業を持つなり、地盤の固まった状態でなければ好きなことはできないと思うんです」
 ――たとえコーチになってもイエスマンじゃ意味がないと?
「僕は基本的に何でも自分から発信したいタイプ。人に“やれ”と言われて“はい”って動くタイプじゃないですから」
 ――究極のヘソ曲がり?
「はい。そこだけは人並みじゃないと思いますね」

 古い取材ノートを引っ張り出してみる。<96年2月>と日付が入っている。宮崎の地で「ビッグマウス」と呼ばれたルーキーは私にこう語っている。
「僕ってヘソ曲がりですから、人からこうやれといわれて自分の野球を変えることはないと思います」
 14年前と同じだ。ヘソ曲がりはヘソ曲がりでも仁志の場合は筋金入りだ。

「1番を打っていた僕が言うのも変ですが、もし僕が一番上(監督)に立ったら2番打者にこだわる野球をやってみたいんです」
 ――単なるつなぎではなくゲームメーカーという意味?
「そうです。足が速くてダブルプレーが少ない。自然の流れで攻撃がつながれば見ている方もおもしろいでしょう。新しい野球が創造できるかなって」

 野球に21世紀の前衛はあるか。あるのなら、ぜひ提案して欲しい。

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<この原稿は2010年1月30日号『週刊現代』に掲載されたものです>