プロ野球の世界において、球団と衝突してシーズン中に辞任した監督が後任人事に口を挟むことは、まずありえない。ところが、この御仁は良かれと思う人物を球団に推薦し、実際、そのとおりになったのだ。何とも不思議な話である。
 1975年の今頃、広島のまちは赤ヘル一色に染まっていた。なにしろカープが球団創設26年目にして初のリーグ優勝の可能性が高まっていたのだ。

 主力選手のひとり、衣笠祥雄は当時の状況をこう語っていた。「9月に入り、遠征先から広島に帰ると、選手が住んでいる地区に横断幕や垂れ幕がかかっているんです。球場は常に超満員。これで負けたら、もう夜逃げするしかないなと。うれしいというより、怖かったですよ」

 そして迎えた10月15日、カープは後楽園で巨人を破り、悲願を達成する。守備コーチから5月に監督に昇格した古葉竹識は何度も宙に舞った。

 チームを劇的に変えたのはこの年、監督に就任した日本球界初のメジャーリーグ出身監督ジョー・ルーツである。帽子の色を紺から赤に変えたのは「赤は戦いの色。今季は闘争心を全面に出す」との決意の表れだった。

 具体的にルーツは、チームをどう変えたのか。過日、当時のエース外木場義郎に話を聞いた。「何が変わったといって、とにかくミーティングばっかりなんです。“今までカープは負け犬だった。何かを変えなくてはいけない”と。悪く言えば、ちょっとした“洗脳教育”でした」

 自分にも厳しいルーツは他人にも厳しかった。自らの退場処分に際し、球団代表の重松良典が仲裁に乗り出してきたことに腹を立て、辞表を叩きつける。指揮を執ったのは、わずか15試合だった。

 短期間で選手の意識改革に成功したとはいえ、これでは短気なオッサンである。そう思っていたところに、ある資料と遭遇した。帰国直前、ルーツは重松に自らの後継者を2人推薦していたのである。

 ひとりは元監督で68年にカープを球団初のAクラスに導いた根本陸夫、そしてもうひとりが古葉である。後者には「内部昇格なら」という前提条件をつけている。後任人事を急ぐ球団が古葉案に乗ったのは言うまでもない。

 ルーツと重松の奇妙な信頼関係が広島のまちに歓喜をもたらせたのだ。40年前の話である。

<この原稿は15年9月2日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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