プロのサッカー選手は子どもの憧れの職業である――。
 とはいえ、本人がどれだけ努力しても、あるいは、親が熱を上げて金や時間をかけたとしても、プロの壁を越えることは簡単ではない。才能はもちろん、運や縁が必要になってくる。サッカー選手に限らず、こうした志望者が多い職業に就く人間は、必ず周囲からの引き立てがあるものだ。
 その意味で松原良香は子どもの頃から、引っ張り上げられる何かを持っていたといえる。
 中学3年のとき、松原はPJMフューチャーズの練習に参加した。
 フューチャーズは87年に静岡県浜松市を本拠地に結成されたクラブチームである。後にディエゴ・マラドーナの弟、ウーゴ・マラドーナがプレーし広く名前を知られるようになった(94年にホームタウンを佐賀県鳥栖市に移転し、鳥栖フューチャーズと改名。97年に解散した後、サガン鳥栖に引き継がれた)。

 松原が選ばれていたジュニアユース代表がフューチャーズの練習場、佐鳴湖グラウンドを使っていたこともあり、中学校の部活が終わった後、高校に入るまでうちで練習すればいいと誘われたのだ。
 嬉しかったか訊ねると松原は「嫌でしたよ」と大きな声で笑った。
「ぼくは当時15才ですよ。相手は大人。特別扱いはなしで、監督からはちゃんとやれと言われるし。佐鳴湖まで1時間ぐらい自転車で通うのも大変でした。坂がとにかく嫌でしたね」

 フューチャーズの選手の中には、後に大宮アルディージャの監督となる張外龍(チャン・ウェリョン)もいた。
 韓国代表として82年スペインワールドカップ出場経験もある張は1度、引退した後、89年からフューチャーズにコーチ兼任で加わっていた。

「チャンさんには良くしてもらいました。すごく優しかったですよ。その他、キーパーの人にかわいがってもらって、部屋まで遊びに行ったり。車で家まで送ってもらったり。なかなかそんな15才はいないですよね」
 松原の人見知りをしない性格は年上の選手からかわいがられた。

 彼はこれと思った人間の懐に飛び込むことが得意だった。ただ同時に、自分が認めない人間に対しては振る舞いが傲慢に映ることもある。それが高校に入ってからトラブルを起こすことにもなった――。

 松原が進学した静岡県の東海大一高校(現東海大翔洋)のサッカー部には、2学年上に森島寛晃、1つ上に服部年宏、同期に伊東輝悦、白井博幸など、後にJリーガーとなる才能ある選手が揃っていた。

 しかし――。
 静岡県には東海大一の他、清水東、清水商業、静岡学園、藤枝東などの強豪がひしめいている。
 松原が在籍した間、東海大一が全国大会に進出したのは、彼が高校2年のとき、91年の高校総体のみだ。この年の高校総体は静岡県で開催され、県大会で優勝した清水東のほか、開催県枠として準優勝の東海大一にも出場権が与えられたのだ。

 そして、この高校総体決勝に進出したのは、静岡の両校だった。
 大会史上初めての同県代表同士の決勝、東海大一は再び清水東に敗れて準優勝に終わった。ちなみに相手の清水東には、斉藤俊秀、田島宏晃らがいた。

 松原のフォワードとしての才能は疑うことはなかったが、高校時代、ユース代表には選ばれていない。彼の素行に問題があるとされていたのだ。
 その最たる例が高校3年の静岡県予選の決勝である――。
「そのとき、ぼくは腰を怪我していたんですが、ちょっと相手をなめていたんです。ぼく抜きでも勝てるだろうと。ところが1点差で負けていた。それぼくが途中出場で入ることになった。入ってすぐ相手チームの選手からぼくは蹴られたんですよ。ぼくはバカだから、そいつを追いかけていって、審判の見ていないところで蹴ったら、痛い痛いと言って倒れた。ぼくは出場1分でレッドカード退場ですよ」

 そして試合に敗れた――。
 普段から生意気だった松原が審判から目をつけられていたことは容易に想像できる。
 松原は、そのとき試合を見に来ていた兄の真也に「お前、バカか」とこっぴどく叱られたのだと頭を掻いた。真也はアルゼンチンから帰国し、清水エスパルスに入っていた。

 ユース代表の関係者に松原はこう言われたことがある。
――今のチームには大柴健二(後に浦和レッズなど)がいて、2人悪いのがいたらチームが滅茶苦茶になっちゃうので呼ばない。悪いのは1人で十分。お前がちゃんとしたら入れてやる。

 毎年8月、静岡でSBSカップという世界から強豪国やクラブを呼んで行うユースの大会が行われている。ユース代表に呼ばれなかった松原は、静岡県選抜として91年、92年に出場した。91年大会で静岡県選抜はブラジルのモジアララに次ぐ準優勝となった。
「あのときは、バイエルン・ミュンヘンに後にドイツ代表になる(ディートマル・)ハマンがいましたね。ドイツ代表を見ていたら、あいつ、あのときの選手だと思いだしたんです。リバプールでもプレーしていましたね」

 この時点ではどうしてもプロのサッカー選手になりたいと思っていたわけではなかった。
「先輩のモリシ(森島)がヤンマーに行っていたのもあって、熱心に誘ってくれました。エスパルスも誘われたと思いますが、どうしても欲しいという風ではなかった。伊東輝と白井は熱心に誘われていました。ぼくは来たいんだったら、いいよ、という風です」
 松原がおぼろげに進路として考えていたのは筑波大学だった。

 サッカー部のキャプテンだった藤田俊哉や、望月重良から一緒にやろうと誘われていたのだ。しかし、東海大一サッカー部から筑波大に進学した前例がなく、「勉強の嫌いなお前では無理だ」と言われ、諦めることにした。

 周囲から強く薦められたのは大阪の阪南大だった。
「ぼくは行きたくなかった。それでも行けというから仕方がなく行ったんですよ。寮があったんですが、風呂が別の駅に行かないと入れなかったり、新入生はグラウンドにトンボをかけなければならなかったりとか。そういうのが嫌になってきちゃって。今から考えれば当たり前のことなんですけれど、当時は我慢できなかったんですね」

 そして入学式の前に松原は荷物をまとめて静岡に帰ってきた。寮にいたのはたった3日間だったという。
「白井がエスパルスに入っていたので、彼の部屋に潜り込んでごろごろしていました。プータローですね。2カ月ぐらい何もしなかった。すごい駄目な奴ですよ。しばらくしたら白井にもいい加減にしろと言われた」

 エスパルスの他、ホンダ、そしてヤマハにも話をしてもらったが、どこも松原を引き受けなかった。
「ぼく、そのときは吉牛(吉野家)でバイトしようと思っていたんですよ。なぜかというと、よく吉牛で食べていたから」

 サッカーからこぼれ落ちそうだった、松原に救いの手を差し伸べる男が現れた。
 山本昌邦である――。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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