松原良香は阪南大学を3日で退学した後、高校の同級生だった白井博幸の部屋に転がり込んだ。白井は東海第一高校を卒業した後、清水エスパルスに加入していた。何もせず、ごろごろしていた松原に白井も次第に呆れ、「いい加減にしろ」とぼやくようになった――。

 

 高校卒業時、松原にはいくつかのクラブから誘いがあった。そこで地元の清水の他、ホンダ、ヤマハに入ることはできないかと打診したが、大学を中退した彼に対して色よい応えは返ってこなかった。

 

 ヤマハの山本昌邦から電話があったのはそんなときだった――。

 

 山本は19歳以下の日本代表のコーチでもあり、松原とは面識があった。前回の連載でも触れたように、松原は素行の問題で、19歳以下の日本代表には選ばれていなかった。

 

 松原の記憶によると、山本から最初に「ユース代表に選ばなかったことを申し訳なかった」と謝られたという。そして、こう続けた。

「今回、世界に出られなかった。お前、分かっているよな。次、何をしなきゃいけないのか」

 

 この年(1993年)の3月にオーストラリアで20歳以下の世界大会、ワールドユースが開催されていた。しかし、日本は自国で開催した第2回大会以外、アジア予選を勝ち抜けずにいた。

 

 山本の優しい口調に好感を持ちながらも、松原は(俺を選ばないから出られないんだよ)と心の中で反発していた。そんな松原の心を動かしたのは、次の言葉だった。

「山本さんから“お前は世界に行かないといけない”と言われたんです」

 

 この時期、日本のサッカーが大きく変わりつつあった。

 前年の92年9月にJリーグの事前大会ともいえるヤマザキナビスコカップが開催、成功に終わっていた。そして、この年の5月に日本で初めてのプロリーグ、Jリーグの開幕を控えていたのだ。

 

 そんな中、山本のいたヤマハ発動機サッカー部は出遅れていた。ヤマハは、72年創部、日本サッカーリーグ1部優勝1回、天皇杯優勝1回の実績あるクラブであったが、Jリーグスタートの10チームから漏れていた。

 

 この時点でヤマハ――のちのジュビロ磐田の陣容は、すでに固まっていたこともあるだろう。山本は松原に国外留学を薦めた。

 

 当時の松原は大人に対して斜に構えるところがあった。理不尽な態度をとる、あるいは自分が認めないと思った教師には反発し、高校時代に3度停学処分を食らっている。山本には、そんな松原を扱う懐の広さがあった。

 

「山本さんのことは、白井や(同級生で清水エスパルスに進んだ)伊東輝(輝悦)もすごくいいように言っていた。ぼくもきちんと話をしてみて、いい感じの人だと。そこで帰ってきたら、ジュビロに入ることを約束してもらった上でウルグアイへ行くことになったんです」

 

 93年4月末、松原は成田空港からロサンゼルス行きの飛行機に乗った。その直後、5月15日にヴェルディ川崎と横浜マリノスの試合が国立競技場で行われた。

 

 Jリーグが華やかに開幕したのだ――。

 

 

 バリグ・ブラジル航空でロサンゼルス、そしてサンパウロを経由してウルグアイの首都、モンテビデオに到着した。荷物はスーツケース1個。

「最初はすごく寂しかったですよ。ホテルはめちゃくちゃ狭くて眠れないし。隣がキャバレーなんですよ。言葉は全く分からない」

 

 松原が覚えていたのは、ウノ、ドス、トレス、クワトロ、シンコ――スペイン語で1から5までの数字だけだった。

 

 ホテルの一帯にはキャバレー、ナイトクラブが建ち並んでいた。松原が散歩していると、派手な化粧をした女性たちから次々と声を掛けられた。

(日本人って、こんなにモテるんだ)

 いい気になって軽い足取りでついて行ってみると、売春婦だった――。

 

 松原は山本の紹介でペニャロールに入ることになっていた。

 ペニャロールは1891年に創立されたウルグアイ屈指の名門クラブである。松原はトップチームのひとつ下のカテゴリーに所属することになった。

 

 4月は南半球では冬に当たる。最初の練習のとき、トレーニングが終わった後、松原は手袋を外して地面に置き、そのまま立ち去った。しばらくして戻ってみると、もう手袋はなかった。

「ハングリーというのを感じましたね。練習から激しい。練習のグランドはぼろぼろ、練習着もスパイクもボールもぼろぼろ。なんでこんなところで、こいつらやっているんだろうって思いました」

 

 時折、トップチームの練習に呼ばれ、紅白戦にも出場した。中にはウルグアイ代表もいた。彼らが必死になって掴もうとしていたのは、国外から垂らされた細い糸だった。

「一緒にやっていた選手がスペインに行ったり、イタリアに行ったりするんです。活躍するとヨーロッパに行けるんだと思いました」

 この感覚が後の松原の人生に大きく影響を与えることになる。

 

 物怖じせず、強気な松原は時に他の選手と喧嘩しながらも、すぐにチームに溶け込んだ。

「リーグ戦ではない、地方で行われた試合に出してもらったんです。田舎でやる招待試合みたいなもんだったんですかね。試合が終わった後、ラジオ局の人間がマイクをもって、ぼくのところに来るんです。ぼく、それに憧れていたので嬉しかったですね。たいしてスペイン語はできなかったけど適当に話しました」

 

 ディスコで知り合ったウルグアイ人女性とつきあうようになり、スペイン語はすぐに上達、チームメイトとの日常会話にはすぐに困らなくなった。松原がペニャロールに所属したのは12月末までの約8カ月。その間、山本はモンテビデオまで2度様子を見に来たという。

 

「おそらく他の視察のついで、というのもあったと思います。山本さんは優しくて、日本からスパイクを送ってくれたりとか、自分で持ってきてくれるんです。でも、ぼくはチームメイトからくれって言われたんで、売るんです。遊ぶ金が欲しいから」

 とんでもない奴でしたよ、と松原は大声でからから笑った。

 

 日本に帰国した松原は山本の手引きで、さらなる階段を昇ることになる。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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