ぶっちぎりのV2だった。17日、福岡ソフトバンクがパ・リーグ過去最速での優勝を決めた。前任の秋山幸二から背番号と監督の座を引き継いだ工藤公康は、連覇を期待される重責の中、見事に任務を遂行してみせた。プレーヤーとしてセ・パ3球団を日本一に導いた“優勝請負人”は、指揮官としても勝負強さを発揮。現役時代の工藤はキャリア終盤、若手育成に尽力するなど、指導力にも定評があった。中でもメジャーリーガーにもなった捕手・城島健司との師弟関係はよく知られている。2000年の日本シリーズでの直接対決は名勝負のひとつ。2人の物語の一節を当時の原稿で振り返る。


<この原稿は2000年11月号の『Number』に掲載されたものです>

「(ホームベースまでの距離が)遠かったな」
 本音ともジョークともつかぬ口調で工藤公康は言った。

 シリーズキャンプ(宮崎)打ち上げの10月15日、工藤は約1カ月ぶりに本格的なピッチングを披露した。ストレート27球、カーブ8球、スライダー5球。合計40球。負傷した右足ふくらはぎの状態については固く口を閉ざした。

 シリーズ開幕まで、あと6日。工藤は初っ端に投げるのか否か――。マスメディアの視線はこの一点に集中していた。大役は経験豊富な工藤で決まりという者もいれば、いや2戦目重視主義のミスターは、シリーズで7勝(5敗)をあげている工藤を第2戦にもってくるはず、ともっともらしく説明する者もいた。

「どうでしょうか、二宮さんから見て?」
 コーヒーカップを持つ手を休めて工藤は逆に私に問いかけた。

「もちろん、初っ端でしょう。イメージを大切にする長嶋監督が去年の中日との日本シリーズを覚えていないわけがない。不利が予想されながら、工藤さんの完封勝利で勢いづいたダイエーは、そのまま中日を押し切った。その再現を指揮官が期待するのは当然でしょう。それに今回の変則日程なら中6日で第6戦にぶつけることもできる……」
<背番号3>になりきったつもりで私は答えた。

「いや、確かにそうなんですけど……」
 工藤は回答を保留し、話の流れを違う方向に向けた。むしろ、こちらの方が重要だといわんばかりに。
「今年のことだけ考えるんだったら僕が投げてもいいんです。だけど来年以降のことも考えるんだったら僕じゃダメなんです。上原とか(高橋)尚成とか……。アイツらがこのプレッシャーに勝ってはじめて次につながる。ジャイアンツはいつまでも僕のようなオジさんに頼っていちゃダメなんですよ」

 ピッチャー、とりわけエースと呼ばれる人種はエゴイストで、ともすると協調性を欠くといわれてきた。400勝投手の金田正一が若手から「カーブを教えてください」と懇願され、「ゼニ持ってきたら教えたる!」と言ったのはあまりにも有名な話だ。
 しかし、こうしたエピソードはプロ野球の世界においては“武勇伝”にひとつとして肯定的な口調で語られる。咀嚼して言えば、そのくらいのエゴイストでなければひとり小高い丘の上に立ち、棒っ切れを持って襲いかかる猛者たちを返り討ちにすることはできないというわけだ。

 余談だが、かつて“草魂”鈴木啓示がバファローズの大エースとして君臨している頃、スワローズから鈴木康二朗というクセ球を武器にする背の高いピッチャーが入ってきた。
 新聞でその報に接した鈴木啓示は、不敵にもこう言い放った。
「このチームに鈴木姓はワシひとりでええ。他の苗字にかえてくれんかのォ」

 他人の“人格”もヘチマもあったものじゃない。世間一般では不条理とされることも、この世界においては、なかば美徳とされる。エースの特権とは、かくも尊大なものだったのである。
 だが、この37歳は珍しく、その範疇に当てはまらない。この春のキャンプでも、小野仁という“未完のサウスポー”に、自らすすんでカーブを教えていた。後日、請求書を送ったという話も私の耳には入っていない。

「とにかく、もうオジさんたちの時代じゃないんですよ」
 工藤公康は再び、同じセリフを口にし、初戦で投げ合うことになるだろう“弟分”にまでエールを送った。
「ダイエーを出る時、若田部にこんこんと言ったんです。“このチームはオマエがピッチャーを引っ張っていかないとダメなんだ”と。そしたらアイツ、僕は大した成績を残しておりませんって言うものだから、怒ったんです。“成績じゃない。年齢なんだ”と。オマエが先頭に立って走り、練習しなきゃ、若い者はついてこないよと。それ以来、彼はかわりましたね。結婚して責任感が出たこともあり、今じゃ6時には起き出して(福岡市内の)大濠公園を走っていますよ。そういう姿が僕はうれしいんです」

 工藤が入団した頃の福岡ダイエーホークスは、本人の言葉を借りれば“走らない、投げない、シーズンに入っても何もやらない”というチームだった。口で言ってもわからないと判断した工藤は、自ら先頭に立つことで投手陣の意識改革に乗り出した。

 創設11年目にしてのリーグ優勝、日本一は多分に工藤の“頭脳”と“経験”がもたらしたものであり、だからこそ後輩たちは工藤を師と慕った。それはピッチャーに限った話ではない。今やチームの大黒柱ともいえる城島健司は、工藤のボールを受けることによって飛躍的にキャッチャーとしての腕を上げた。ブルペンではじめて工藤の投球に接した時、カーブをミットにおさめることすらできなかった若葉マークのキャッチャーが、工藤の教えを受けたことがきっかけでパ・リーグナンバーワンと呼ばれるまでに成長した。城島にとって、今回の日本シリーズは、自らの成長ぶりを、袂を分かった兄貴にアピールするにはまたとない機会だった。

 だから、わざわざ調整遅れが伝えられる工藤に電話でこう告げたのである。
「工藤さん、絶対に出てきてくださいね。じゃないとせっかくの日本シリーズ、おもしろくないですから……」

 再び宮崎。
 打者・城島について感想を求めると、即座に工藤は答えた。
「勝負師ですね。アイツが集中力を持って打席に立てばかなりの確率で打たれると思います」

 城島の今季の打撃成績は、打率3割1分、9本塁打、50打点、右手中指の骨折で約2カ月半のブランクがなければ、昨シーズン(打率3割6厘、17本塁打、77打点)なみの成績は間違いなく残していただろう。
 打者としての城島の才能はむしろ、数字から隠れた部分にある。思い出して欲しい。昨年の日本シリーズ第3戦。サウスポー山本昌のヒザ元のシンカーを腰を鋭く回転させてレフトスタンドに運び去った一撃、あれは体操風にいえばD難度の芸術弾だった。

「僕にしか打てないホームラン」
 試合後の自画自賛が、あの時ばかりは少しも嫌味に聞こえなかった。

(後編につづく)


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