高校時代から“平成の怪物”の異名をとり、鳴り物入りでプロ入りした中田翔。しかし、昨季までの3年間は一軍に定着することができず、“怪物”の名は影を潜めていた。しかし、今季は違う。レギュラー定着のみならず、今や4番としてチームに大きく貢献している。プロ4年目にしてようやく開花した天才打者に二宮清純が独占取材した。
(写真:「子供が4人います」と冗談を言う余裕も)
 抜けたスライダーのことを、プロ野球の世界では略して“抜けスラ”と呼ぶ。バッターにとって、これほどおいしいボールはない。バットの芯でとらえると、驚くほど飛距離が出るのだ。
 6月12日、札幌ドーム。日曜日のデーゲームとあって、スタンドには立錐の余地もなかった。
 横浜の先発はドラフト1位ルーキーの須田幸太。社会人野球のJFE東日本から身を投じた即戦力のライトハンダーだ。
 0対0。4回裏一死の場面で北海道日本ハムの4番・中田翔はゆっくりと打席に入った。

 スタンスを広く取り、右手で後ろ足の太腿をトンと叩く。重心が残っているかを確認するためだ。
 さらにはトップの位置でバットを雨のしずくでも払うかのごとくビュンと一振りする。そして傘のように立てる。実はこの動作こそ肝なのだ。
「ヘッド(の重み)を感じたいんです」
 おまじないではない。体と道具が一体となるための最後の確認作業だ。
 2ボール2ストライクからの6球目、真ん中高めのスライダーを叩くと、打球は一塁側のファウルスタンドに飛び込んだ。

 続く7球目、前のボールよりもさらに甘いスライダーが真ん中に入ってきた。いわゆる“抜けスラ”だ。
 絶好調の中田が、これを見逃すはずがない。快音を発した打球はレフトスタンド中段に消えた。
 ケガで離脱した小谷野栄一に代わり、4番に座って14試合目。待望の4番初アーチだった。
「4番目の打者」から「真の4番」へ――。その将来性と課題を探る。

 球史を巡ろう。
 通算868本塁打の王貞治が初めてホームラン王に輝いたのはプロ入り4年目、62年のシーズンである。
 この年、38本塁打を放った王はそれ以降、13年連続でキングの座を独占した。
 前年、127試合に出場しながら13本塁打に終わった王が大変身を遂げたのには理由があった。
 少年時代に右打ちから左打ちへの転向を勧めた荒川博が巨人の打撃コーチに就任したのである。
 荒川が授けた技術こそ、その後、一世を風靡することになる「一本足打法」であった。

 荒川は語っていた。
「参考にしたのは実はベーブ・ルースのフォームなんだ。打つ時のタイミングが好きで、オレも大学時代は一本足で結構、打球を飛ばしていた。
 これに武道の基本が加わった。お師匠さんは合気道の植芝盛平先生。大切なのは臍下丹田を意識すること。要は座禅と一緒。目とボールの間にバットを入れる。これが大事なんだ」
 王と荒川の二人三脚は9年にわたって続いた。

 フォーム改造、そして4年目での打撃開眼。「世界の王」との共通点について告げると中田は「ヘェー、知りませんでした。頑張らないといけませんね」と目を丸くして言った。
 王貞治がベーブ・ルースなら、こちらはアルバート・プホルス(カージナルス)ばりだ。
 言わずと知れた10年連続打率3割、30本塁打、100打点以上のメジャーリーグを代表する強打者。広いスタンスととびぬけて速いスイングが彼のトレードマークである。
 中田の新フォームを初めて見た時、てっきりプホルスのフォームをモデルにしているのかと思った。
 重心を下げ、ほぼノーステップでバットを振り抜く。これにより安定感が増し、打球が広角に飛ぶようになった。プホルスと比べるのは酷だが、スイングスピードは日本人の中では突出している。

 しかし、中田が手本にしたのはプホルスではなく、高校の先輩だった。ツインズの西岡剛。大阪桐蔭高の5年先輩にあたる。
「だまされたと思ってやってみろ!」
 昨季のオフ、自主トレの場で中田は西岡から、そう言われた。
 西岡が中田にレクチャーした打法は脇を締め、バットを右の耳の近くに置くというもの。千葉ロッテの金森栄治打撃コーチが提唱する打撃理論に沿ったフォームだ。
「はじめは、やっぱりものすごく違和感がありましたよ。今までは脇を開けて構えていたのを、締めろというわけですから。(フォーム自体)窮屈やし、打球も飛ばん。“オレには無理やろう”と思いましたよ」

 しかし、やっていくうちに徐々に思うような打球が飛び始めた。今月からはオリックスのT−岡田らが実践しているノーステップ打法も採用した。
「僕の構えは重心が低い。下半身に疲れがたまると、負担がかかってくるんです。ビデオを観ていてそのことに気が付いた。
 それなら、もう最初から足を開いておこうと。ちょうど踏み出した時と同じ足の幅にしたんです」
 ――日本人は非力を補うために足を上げる傾向が強い。飛距離に影響はないのか?
「僕は距離は要らないと思っているんです。むしろ、僕の今の技術では足を上げることで確実にボールがとらえられなくなる。このブレを少なくするためにスリ足(のステップ)に変えたんですが、先ほど言ったように疲れがたまりやすい。だったらノーステップの方がいいだろうと。今は“エエ感じ”になってますよ」

 今季、中田は既に7本のホームランを記録(6月17日現在)している。その中で本人が最も気に入っているのが5月7日、札幌ドームで福岡ソフトバンクのサウスポー杉内俊哉から放ったものだ。
 杉内は苦手なピッチャーのひとりだったが、外角の直球を詰まりながらもライトスタンドに運んだ。あれこそはパワーヒッターが放った“技あり”のホームランだった。
「引きつけておいて、グッと右手で押し込んだんです。詰まらされても振り切れる。これが去年との違いだと自分では思っています」

 中田は高校通算87本塁打という金看板を引っさげ、2008年、高校生ドラフト1巡目で大阪桐蔭高から北海道日本ハムに入団した。
 初めて甲子園に出場したのは高1の夏。エースは現巨人の辻内崇伸。4番は現中日の平田良介だった。
 身長183センチ、体重80キロの偉丈夫。ドスのきいた顔は、とても16歳のそれとは思えなかった。
「あれは彼が中2の時、体がデカくて子供の中にひとり大人が交じっているようでした」
 中田を初めて見た時の印象を同校監督の西谷浩一は、こう語る。

 広島のシニアリーグでは評判のピッチャーだった。ストレートが速い上にスライダーも切れる。高校に入ってからも順調に成長を続けた。
 再び西谷。
「ストレートは1年生の時点で既に140km台後半は出ていた。ただ速いだけではなくフィールディングも牽制もうまかった。
 初対戦のチームでランナーを背負っても、全然、心配の必要はなかった。ほとんど牽制で殺してしまうんですから。クイックでは1.1秒くらいで放っていた。盗塁を許した記憶はほとんどないですね」

 中田とバッテリーを組んでいたのが現大阪ガスの岡田雅利である。
「1年の冬を越すと、中田はさらに速くなりました。ストレートはほとんどが150km台。コントロールもよく、コーナーにびしびし決まる。もうリードが全くいらないくらいのピッチャーに成長していました。
 今でも覚えているのは、2年の春。広島商とやった練習試合。高めの真っ直ぐが速過ぎて捕れなかった。ミットを出したらギューンとボールが伸びてきて、ミットを弾いてそのまま(ボールは)バックネット方向に飛んでいってしまった。僕の感覚では160kmは出ていました」
 怪腕はバットを持たせても別格だった。

 岡田は語る。
「あれは3年のセンバツ前に大阪桐蔭グラウンドでやった練習試合です。高めの甘いボールを叩いたら、左中間に1本あった高い木の上を軽々と越えていってしまった。170m以上は飛んでいるはずです。
 後にも先にも、あんな打球は見たことがない。本当に同じ人間なのかと思いました。まさに怪物、この表現がこれほどぴったりくる男はいませんね」
 投げれば160km、打てば170m。もちろん正確に測った記録ではないが、それが誇張に聞こえないのが怪物の怪物たる所以か。

(後編につづく)

<この原稿は2011年7月11日号『週刊現代』に掲載された内容です>