1990年代から2000年代にかけて、ヤクルト(現・東京ヤクルト)は5度のリーグ優勝、4度の日本一を達成した。その黄金時代を築き上げたのが古田敦也、高津臣吾、飯田哲也、宮本慎也、岩村明憲らである。彼らを発掘し、プロの世界へと導いたのが元スカウト部長の片岡宏雄氏だ。独自の視点と手法で33年間、スカウト活動を行なってきた片岡氏に二宮清純がロングインタビュー。その一部を紹介する。
二宮: 片岡さんがスカウトという仕事で一番重要視されているのは?
片岡: やはり人とのつながり。ネットワークがどれだけあるかということですね。僕は浪商、立教の出身ですから、そのOBはもちろん、甲子園仲間や六大学の人たちともつながりがある。それに現役引退後は新聞記者を6年ほどやりましたので、全国にネットワークがありました。ですから、どこに行っても誰か必ず知り合いがいたものです。「今度、そっちに行くから」と電話1本すると、当日駅まで迎えにくれたりしてね。すごくありがたかったですよ。

二宮: インターネットが普及した今は、現地に行かなくても選手のデータがすぐに入ります。そういう中ではなかなか新たな発掘がしにくくなっているのでは?
片岡: 今はそういう独自の発掘みたいなことは少なくなりましたよね。僕は2003年まで33年間、スカウトをしましたが、もう後半の方では「こんな選手知らんかったなぁ」なんていうような選手が指名されることは皆無でしたよ。

二宮: そうなると、逆にスカウト活動がやりにくくなることもあるのでは?
片岡: やりにくかったですよ。社長や監督が、スカウトでない人からも情報を仕入れてくるんですよ。そうすると「この選手はこうだ」って評価するようになりますからね。僕はみんながいくら「いい選手だ」と言っても、自分が違うと思えばリストには入れないし、逆に他の人が「ダメだ」という選手でも実際に見て、いいと思えばいい。そういうふうに勝負してきたものですから、やりにくさはありました。それとスカウト会議が嫌いでしたね。会議で話し合うと、どうしても無難な方向にいっちゃうんですよ。

二宮: 確かにそうかもしれないですね。下手に意見を言ってしまうと、後から何を言われるかわからない。そうなると、多数派に流れがちになりますからね。
片岡: そうなんです。だからスカウト会議をやると、12球団どこも同じような選手がリストアップされるんですよ。それでも以前は「ドラフト外」があったからね。それがなくなってガッカリしましたけど、今は育成ドラフトがあるから救われていますよね。

二宮: 本当は「ドラフト外」の部分がスカウトとしての本当の勝負どころなんでしょうね。
片岡: そうですよね。本ドラフトでも3巡目から下というのは独自性が出てくる。1、2巡目はどこも一緒ですから。ドラフトでの見どころはスカウトの色が出てくる下位や育成ドラフトですよ。

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