1993年は日本サッカーにとって、歓喜と悔しさの涙が混じり合った熱狂の嵐の中にいた1年だったといえる。

 

 この年の5月、プロリーグであるJリーグが始まっている。開幕戦となったヴェルディ川崎と横浜マリノスの試合には59626人の観客が集まった。12月に閉幕するまで、1試合平均17976人を集めている。親会社に寄生したプロ野球球団と違う、地元密着を謳ったJリーグは新鮮だった。人気クラブの対戦はプラチナチケットとなり、社会現象となっていた。

 

 一方――。

 この年の10月28日、ワールドカップアジア最終予選を戦っていた日本代表はイラク代表戦で終了間際に同点とされ、ほぼ手にしていた念願のワールドカップ初出場を逃している。

 

 それでもサッカーを巡る熱が冷めることはなかった。

 翌年1月に国立競技場で行われた、第1ステージと第2ステージの勝者によるチャンピオンシップで鹿島アントラーズと川崎が対戦。2試合目、ジーコがPKの際、唾を吐いて退場になったことは大きなニュースとなったものだ。

 

 そのチャンピオンシップから約1週間後の1月21日、静岡県のつま恋でアトランタ五輪を目指す22才以下(U-22)の代表チームが始動している。

 

 その中には、12月にウルグアイから帰国したばかりの松原良香の姿もあった。

 松原はジュビロ磐田と契約を結んでいたが、1試合もJリーグに出場していない選手が代表に招集されるのは異例のことだった。これはコーチの山本昌邦の強い推薦があったからだ。

 

 この代表には、前園真聖、松波正信たちがいた。

 松原はこう振り返る。

「彼らからすれば、なんでこいつが入っているんだという感じだったでしょうね。ゾノ(前園)たちはすでにJリーグで活躍していましたから。ぼくの方はゾノの話は聞いていたし、一緒にやるのは楽しみでしたよ」

 

 つま恋合宿の後の2月、U-22代表は『マレーシア国際トーナメント』に参加している。この大会ではU-23マレーシア代表、ノルウェー、デンマーク五輪代表と対戦、欧州の2チームに敗れ、3位となった。

 松原は初戦のマレーシア戦に平野孝に変わって途中出場すると、残り2試合では松波とツートップを組んで先発出場、2得点をあげている。

 

 そして翌3月、Jリーグ2年目が開幕した。

 ジュビロはこの年からJリーグに昇格したクラブだった。フォワードは日本代表の中山雅史と元イタリア代表のサルバトーレ・スキラッチの2人。松原は試合の流れを変えるために投入されるスーパーサブという扱いだった。

 

“トト”という愛称を持つスキラッチは、64年にイタリア、シチリア島のパレルモで生まれている。FCメッシーナで2部リーグの得点王となり、ユベントスへ移籍した。そして90年3月に初めてイタリア代表に招集。2カ月後に母国イタリアで行われたワールドカップ代表に滑りこんだ。

 

 ワールドカップでは、しばしば彗星のように突然輝きを見せる男が現れることがある。スキラッチは、まさにそんな選手だった。7試合で6得点を挙げ、得点王。その後、インテル・ミラノを経て、ジュビロに加入した。

 

 当初、松原はスキラッチにいい印象はない。

「練習はほとんどチンタラですよ。チンタラチンタラでシュートは入らない。すぐに帰ろうとしますしね。このオヤジ、勝手な奴だなと思っていました」

 

 ところが、試合になると、その“チンタラしたオヤジ”は姿を変えた。とにかく点を獲るのだ。

「派手な技はないんですけれど、ターンとかもの凄く速い。プレーの予測が的確で、点を獲るためのポジションが非常に上手い」

 

 そして、何より“プロフェッショナル”だった。

「俺は点を獲ったんだから金をくれ、みたいなことをすごくはっきりと言っていた。そんなこと日本人だったら言わないですよね。金のためにわざわざ日本まで来ているんだという感じ。ワールドカップ得点王をとって、本当に生活を賭けてサッカーをしているんだと思いましたね」

 

 松原は、そんなスキラッチを眩しい思いで見るようになっていた。

「スキラッチとは英語で話していました。英語は自分で勉強してね。ただ、彼は寂しがり屋なのか、いつも彼女と一緒に行動していました」

 

 外国人に物怖じしない松原がスキラッチ以上に親しくなったのは、ブラジル代表のドゥンガだった。

 ブラジル南部リオ・グランジ・ド・スール出身のドゥンガもまたジュビロの目玉として加入した選手だった。

「ぼくはスペイン語やちょっとポルトガル語も話せたので、ドゥンガとプライベートでも出かけていました。彼の娘と息子がまだ小さくてね」

 

 ある日、「ぶよぶよしているじゃない」と冗談を言いながら松原がドゥンガの太腿をぺちんと軽く叩いたことがあった。白い腿がたるんでいるように見えたのだ。

「そうしたら、触ってみろと。今度はかちんこちん。力を抜いているときと全然違うんです。ああ、これが、いい筋肉なんだと」

 

 また、ドゥンガがテニスボールをリフティングしてみせることがあった。松原も真似をしてやってみたが、小さなボールをコントロールするのは容易ではなかった。

 

 ブラジルではドゥンガは足技が下手な選手だとされていた。しかし、彼は試合でこれみよがしに技を見せつけないだけで、自分たちと比較にならない、しっかりとした技術を持っていた。ブラジルというサッカー大国の深い底を覗いたような気分になった。

 

 松原にとってJリーグ1年目となる94年シーズン、途中出場が中心ながら、18試合で7ゴールを挙げている。日本代表と元イタリア代表の2人に挟まれた若手としては十分な成績といえる。

 

 シーズン終了後、松原は自信満々で契約更改に臨んだ。

 しかし――。

 背広姿の男たちから、提示された金額は満足できるものではなかった。スキラッチ、あるいはウルグアイで見た選手たちのように松原は自らの価値を主張したが、彼らから納得できる答えは戻ってこなかった。

 

 やがて松原はこの不可思議な評価をしている人間が裏にいることに気がついた。そして、一本気な松原はその男と衝突する――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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