センバツ第1回大会優勝校の高松商業が20年ぶりに甲子園に帰ってくる。春2回、夏2回の全国優勝を誇る名門。OBからは宮武三郎、水原茂、牧野茂の3人が野球殿堂入りを果たしている。

 

 伝統校ならではの儀式がある。プレーボールがかかる前、ベンチも含めて選手全員が三塁ベースを囲んで円陣を組み、主将が口に含んだ水を吹きかけるのだ。同校ではこれを「志摩供養」と呼ぶ。

 

 志摩定一。優勝した1924年の第1回大会の主力選手で、決勝の早稲田実業戦では「6番サード」でフル出場を果たしている。

 

 だが、これ以前から肺を病み、同年冬に他界している。

 

 高松商の部史から志摩の遺言を引く。「自分は死んでも魂は残って、三塁を守る」。これがきっかけで始まったのが志摩供養である。

 

 同校OBで阪急のリーグ三連覇(67〜69年)に貢献した山口富士雄は3年の春(60年)、決勝の米子東戦で甲子園史上初のサヨナラ本塁打を放ち、全国優勝に貢献した。

 

 主将の山口は試合前、口に水を含んでサードベースに走った。当時のベンチ入りは14人。全員で円陣を組み、悲業の最期を遂げた先輩の霊を慰めた。

 

 山口はこんな秘話を口にした。「米子東戦、4回に先制され、なお走者が三塁にいた。これをうちの左投手が牽制で刺した。その瞬間、僕は志摩さんがアウトにしてくれたんやと思いました」

 

 山口の2年後輩で、中日や阪急で活躍した島谷金二も志摩供養への思いは深い。

「高松商に入ったばかりの頃は、この儀式の意味がわからなかった。教えてくれたのは、当時の監督・若宮誠一さん(故人)。儀式の背景を聞いて、伝統の重みを感じました。儀式のあとは、気持ちが奮い立ったことを覚えています」

 

 ところが、この志摩供養、1978年に遅延行為、宗教的行為を理由に高野連から中止勧告を受け、甲子園から姿を消す。

 

 再び山口。「宗教行為(との指摘)は論外。遅延行為といっても、そんなに時間がかかるわけじゃない。高松商に古くから伝わる伝統を後輩たちにつなげることで、高校野球への思いを確認したい。それは故人も含め、OB全員の願いじゃないでしょうか」。高校野球の歴史は百年を超える。良き伝統は守り、語り継がねばならない。高野連はこうした“野球遺産”をもっと大切にして欲しい。高校野球という素晴らしい文化を未来につなげるためにも。

 

<この原稿は16年2月3日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから