1996年夏、アトランタ五輪代表が日本に戻った日の成田空港は大騒ぎだった。

 到着ロビーの2階通路まで二重三重の人垣ができ、500人を越える人間が待ちかまえていた。揃いのスーツを着た松原良香たち五輪代表の選手が姿を現すと、一斉にカメラのシャッターの音がしてフラッシュが焚かれた。

 

 松原たちは、想像していた以上に日本では騒ぎになっているのだと、思わず顔を見合わせたという。

 アトランタでブラジル代表を破ったことは、松原たちの扱いを変えた。サッカースクールに呼ばれ、指導すれば数十万円の金が懐に転がり込んできた。松原は20歳そこそこで、年俸数千万円を貰っていた。そこにあぶく銭が加わったのだ。

 

 松原は当時をこう振り返る。

「ちやほやされて、勘違いをする部分もありましたよ。ぼくはオリンピックでゴールを決めたわけでもなかった。ブラジルに勝ったのは事実でしたけど、ぼくの力じゃない」

 

 清水エスパルスの練習が終わった後、着替えて、タクシーで東京に向かうこともあった。静岡から東京までタクシー代は10万円を越える。それをもったいないと思ったことはなかった。金は湧いてくるものだと思い込んでいた。渋谷で友達と落ち合い、朝まで酒を飲み、都内のホテルに泊まった。

 

 酒はもともと強かった。

 さまざまな人間が酒をご馳走してくれた。多くの人間が自分と知り合いになりたがっていると誇らしく思っていた。自分が会いたいと思う芸能人は、そうした友人たちが、つてで会わせてくれた。

 

 そんなある日のことだった。

 練習の後、風呂場の脱衣所で松原はいつものように年の近いチームメイトと軽口を叩いていた。そこに現れた先輩選手が松原を呼び止めた。

「お前、このままじゃ潰れるぞ」

 

 大榎克己だった。

 静岡では小学校から地域の選抜チームで合宿を張る。中学と高校が一緒に集まることもあり、65年生まれの大榎とは10歳ほど年が離れていたが、古い付き合いだった。松原にとってはエスパルスで頭の上がらない人間のひとりだった。

 

 松原は一瞬たじろぎ、言葉が出なかった。そしてこんな風に思った。

(大榎さんはいい選手だ。しかし、彼は世界を知らない。オリンピックを経験してきた自分を嫉妬しているのだ)

 

 しかし、正しいのは大榎の方だった。

 エスパルスの監督、オズワルド・アルディレスは松原のことを目にかけていた。

「お前はもっと上に行ける選手だ。(ユルゲン・)クリンスマンのようになれる」

 とドイツ代表のフォワードの名前を出して発破をかけたこともあった。ところが、松原の中に表れた慢心をアルディレスは嗅ぎつけたのだろう。五輪以降、距離はひらいていった。

 

 翌97年2月、松原は出場機会を求めて、ジェフユナイテッド市原に移籍。しかし、このシーズン、25試合出場8得点。目立った成績を上げられなかった。

 

 

 アトランタ五輪から帰国後、勢いを落としたのは松原だけではない。

 鋭いドリブルと閃きのあるパスで将来の日本のサッカーを担うであろうと予想されていた前園真聖は、五輪の前から年齢制限のないフル日本代表に選ばれていた。しかし、五輪後、彼のプレーからはかつての輝きが消えた。

 

 その前園と入れ替わるようにフル代表に入ったのが中田英寿だった。

 97年5月の日韓戦に中田は招集。その直後、6月から始まったワールドカップ・フランス大会のアジア予選のメンバーに入った。アトランタ五輪のときと同じように、中田は最後に滑り混んだのだ。そして、彼はその座を離すことはなかった。

 

 97年11月16日――。

 日本代表はマレーシアのジョホールバルで、翌年に行われるワールドカップ・フランス大会のアジア第3代表の座を掛けて、イラン代表と対戦していた。

 日本代表には、中田の他、城彰二、そしてジュビロ磐田で同僚だった中山雅史などがいた。

 

 松原はひとりでテレビでこの試合を見ていた記憶があるという。

「(中田)ヒデは本当にいいプレーしていましたね。中山さんにゴールを決めてほしいと思って見ていました。本当に応援していました。だから、延長で日本が初めてワールドカップ出場を決めたときは嬉しかったですよ」

 

 翌98年、松原は最初のクラブであるジュビロ磐田に戻った。

 磐田の先発は中山とブラジル人のアレッサンドロ。松原は高校を出たばかりの選手とともにベンチ入りすることなった。そして、途中交代でピッチに入るのはいつも5歳年下のフォワード――高原直泰だった。このシーズン、松原は1試合も出場することはなかった。

 

 97年4月、稲本潤一が17歳6カ月で最年少Jリーグデビューしたことに象徴されるように、高原、小野伸二、中村俊輔らの新たな才能が現れていた――忘れっぽい日本人の頭からアトランタ五輪は消えようとしていた。

 

 松原は24歳になっていた。環境を変えねばならないと、焦っていた。そして彼が目を向けたのは欧州大陸だった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


◎バックナンバーはこちらから