98年のシーズン、松原良香は所属していたジュビロ磐田で1試合も出場機会がなかった。そこで松原は日本を出ることにした。頭に浮かんだのは欧州だった。

 

 まず磐田にいた外国人選手に欧州のクラブに強い代理人を紹介してもらい、プレー映像が収められたビデオを渡した。すると、代理人は興味を示してきた。

 

 もちろん、これまでもらってきたような何千万円という年俸は無理だと松原は理解していた。収入は問題ではなかった。高いレベルで自分の力を試したい。ただ、それだけだった。代理人が見つけてきたのは、プルヴァ・フルヴァッカ・ノゴメトナ・リーガ(プルヴァHNL)のNKリエカ(現HNKリエカ)というクラブだった。プルヴァHNLとは、クロアチアの1部リーグである。

 

 クロアチアは東欧のサッカー強豪国だ。

 91年にユーゴスラビアから離脱したクロアチア代表が参加した最初の大きな大会は96年ユーロ予選だった。イタリア代表と同組であったにも関わらず、1位で本大会出場。本大会でも8強に入っている。98年のフランス・ワールドカップでは、アルゼンチン、ジャマイカ、そして日本というグループリーグを2位で通過。決勝トーナメントを勝ち進み3位となっている。白地に赤色の市松模様のユニフォームを覚えている方は多いだろう。

 

 クロアチアのクラブに移籍するのだと聞かされた松原は最初「どこにあるんだ」と首を傾げた。「ワールドカップに出ていたじゃないか」と代理人に教えられて、得点王となったダヴォル・シュケルの国だと気がついた。

 

中田英より半年遅れの欧州行き

 

 99年1月、松原はクロアチアに渡った。アトランタ五輪で“同僚”だった中田英寿は、ワールドカップ出場後、イタリアのペルージャに移籍していた。中田よりも約半年遅れの欧州行きだった。

 

 NKリエカは46年に創設されたクラブでイストリア半島の東側の付け根にあたるリエカを本拠地としている。

 

 リエカはクロアチア有数の港湾都市である。住居として用意されていたホテルの目の前にはアドリア海が広がっていた。ホテルで出される食事はイタリア料理が多く口にあった。リエカは、イタリアが領有していた時期もあったのだ。

 

 月給は日本円で15万円程度。移動の足としてレンタカー代が月数万円ほど掛かった。その他、異国での生活は出費が多く、給料では足りなかったが、気にならなかった。ここで活躍すれば道が開けると信じていたのだ。

 

 リエカのレベルは高かった。

 クロアチア代表の他、ハンガリー代表、ボスニア代表といった代表選手が所属していた。クロアチア五輪代表、ユース代表に選ばれている若手選手も多かった。松原にとって刺激のある環境だった。

 

 ただし、クロアチアでのデビューは少し遅れた。「ビザとか移籍証明書発行手続きとか色々あるじゃないですか。試合に出られるようになったのが、4月ぐらい。6月でシーズンが終わったのであまり試合には出られなかったんですよ」。このシーズン、リエカはリーグ2位の好成績を残し、欧州チャンピオンズリーグの予選の出場権を手に入れている。

 

夢と消えた契約延長

 

 数少ない出場機会でも強い印象を与えたのだろう、松原は「マツ」という愛称で呼ばれるようになった。街を歩いていると見知らぬ人間から誘われてレストランで食事をご馳走されたこともあったという。

 

「スタジアムでは発煙筒がバンバンたかれて、すごい雰囲気だった。チームの成績がいいからみんな親切にしてくれるけれど、逆になれば怖いと頭のどこかで思っていました。すごく熱い人たちですから。クロアチア人ってみんな身体が大きいんです。こりゃ、変なプレーをしたら大変なことになるなと」

 

 監督、クラブとの関係も良かった。

「監督は選手時代、スペインのオビエドでプレーしていたので、スペイン語が出来た。GMとは英語で話をしていました。彼らはぼくのことを気に入ってくれて、来季も欲しいと言われました」

 

 提示されたのは月収30万円だった。当初の倍の金額である。

「ぼくはそれを最低条件としてプラス、ホテルではなく家を要求しました。あと、未払いのボーナスもあったので、“それも払って欲しい”と。2位のボーナスがなんやかんやで日本円で100万円ぐらいあったはずなんです」

 

 松原はリエカでもう1シーズンプレーしてもいいという気持ちだった。一方、代理人は違っていた。彼は松原を金の取れる選手だと踏んだのか、リエカとの契約を確保した上で、他のクラブを探そうと言い出した。

 

 松原は交渉を代理人に任せて、日本に帰国することにした。

 

 ところが、シーズン前の合宿が始まる時期になっても連絡がない。そんなある日、すぐにミラノへ来てくれと電話が入った。松原は自費で航空券を買い、イタリアへ向かうことにした。

 

「ミラノで1週間ぐらい待たされた後、FCチューリッヒのテストを受けることになったと代理人から連絡が来たんです。朝5時に起きてタクシーで駅まで行きました。イタリア語も分からないのに、1人ですよ。駅には窓口が一杯あるじゃないですか。どこで買っていいのか分からない。盗人が多いから気をつけろと言われていたので、荷物を抱えて走り回っていました。チューリッヒまで行きたいと必死で訴えて、チケットを買いました」

 

 チューリッヒの駅に着くと、代理人が待っていた。彼はスイス在住だったのだ。

 

 FCチューリッヒは、スイスの1部リーグ、スイス・スーパーリーグに所属するクラブである。60年代から70年代にかけて国内タイトルを多く獲っている、スイスの名門クラブだ。

 

「その時期、スイスは気候がいいのでヨーロッパ各地から合宿に来るんですよ。最初どこかのクラブとの練習試合にいきなり出させられたんです。そこでフェイントを掛けたりとか、いいプレーが出来た。そうしたらもう1試合見たいという話になった」

 

 次の練習試合の相手を見て、松原は思わずめまいがした。ドイツのバイエルン・ミュンヘンだったのだ。

「(元ブラジル代表フォワードの)エウベル(元パラグアイ代表フォワードのロケ・)サンタ・クルス、(元ドイツ代表のカルステン・)ヤンカーとかがいたんです」

 

 試合が始まると、松原はバイエルンの選手たちの巧さに圧倒された。

「ドイツのサッカーだから、がちがち来るのかなと思っていたら、みんな上手くてきちんと繋いでくる。チューリッヒのメンバーは1軍じゃなくて、1.5軍とか2軍の選手。歯が立たなかったです。自分も最悪の出来でした。そもそもオフだったから、全然身体を動かしていなかった。ミラノでも公園で走っていたぐらい。テストだと分かっていたら身体を万全にして来たんですが」

 

 結局、テストには合格できなかった。リエカとの契約延長の話も消えていた。これからどうなるんだ、と松原は思わず宙を仰いだ。

 

 これが躓きの始まりだった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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