20日、兵庫・阪神甲子園球場で「第88回選抜高等学校野球大会」が開幕する。紫紺の優勝旗を懸けて、全32校による熾烈な争いが繰り広げられる。今から38年前のセンバツで“甲子園のヒーロー”が誕生した。その名は、阿久沢毅。彼は王貞治(早実)以来20年ぶりとなる2試合連続ホームランを記録し、時の人となった。しかし、その後、阿久沢はプロのユニホームに袖を通すことなく、野球人生にピリオドを打った。高校野球ファンの間では知る人ぞ知る幻の天才スラッガーの肖像を22年前の原稿で浮き彫りにする。
<この原稿は1994年2月号の『Number』に掲載されたものです>
「桐生高校に行って下さい」
JR両毛線、桐生駅前で乗ったタクシーの運転手には、確かにそう告げた。しかし着いた先は、県立桐生工業高校だった。
「運転手さん、桐生工業じゃなくて、桐生高校ですよ」
「エッ、桐生高校……あぁ、キリタカのことですか。こりゃ失礼」
群馬県では伝統ある県立の普通高校のことを「~タカ」と呼ぶ。前橋高校は「マエタカ」、高崎高校は「タカタカ」、そして桐生高校は「キリタカ」である。
県下一の野球名門校、キリタカが甲子園をわかせたのは、今から16年前の春のことである。11年ぶりに甲子園に姿を見せたキリタカは、エースに木暮洋、主砲の阿久沢毅らの活躍で準決勝にまでコマを進めた。優勝した浜松商に惜しくも2対3と競り負けたが、優勝しても不思議ではないだけの実力を備えていた。
これから紹介する阿久沢毅は、この大会で大変な記録を作った。2試合連続ホームランである。これは第30回大会(1958年)で早実の王貞治がマークして以来20年ぶり、史上4人目の快挙だった。
「記録のことなんて全く知りませんでした。記者の人たちからそのことを聞いた時“何だか、こじつけっぽくていやだなァ……”と思ったことを覚えていますよ」
広さにして10坪ほどの桐生高校の体育教官室。古くなった大型のガスストーブに手をあてながら同校の体育教諭であり、野球部監督も務める阿久沢は言った。
2試合連続ホームランの直後、報道陣に促されて、お立ち台に上がる際、阿久沢は「僕が上がっていいんですか?」とわざわざ訊ねた。さして、うれしそうでもない17歳の少年の姿が気に入らないのか、ひとりの記者が本人に聞えよがしに吐き捨てた。「全くおかしな子だねェ……」
1本目のホームランは2回戦の岐阜高戦。浜風に乗って、打球は楽々とレフトのフェンスを越えた。2本目は準々決勝の奈良・郡山戦。ライナー性の打球は逆風をものともせずに、ライトラッキーゾーンに突き刺さった。
<2本の本塁打は最初が左翼、この日が右翼と打ち分けたのも当時の王にそっくり>
当日の朝日新聞夕刊は、そう伝えている。
「実を言うと2本目のホームランは、大変なショックでした」
意外なセリフを、阿久沢は口にした。
「逆風だったとはいえ、バットの真芯で捕えたボールがスタンドに届かなかった。ラッキーゾーンでワンバウンドした打球が、スタンドのフェンスに当たるのが見えたんです。何だ、僕のパワーもこんなものか。そう思うと、素直に喜ぶ気がしなかった。むしろ、悔しかったですね」
対郡山戦、最後の打席で、再びホームランを打てそうなボールがホームベースをよぎった。阿久沢はインパクトの瞬間、わざと力を抜いた。「これ以上、打っちゃまずいことになるんじゃないか」。本気でそう思った。目立つことが無性に照れ臭かった。フェンス際でかろうじてキャッチすることのできたライトの選手が、セカンドベースを回ったところで踵を返した阿久沢に強い調子で言った。「2本も打てっこないだろう」
阿久沢は心の中でつぶやいた。「それでいい、それでいい」。ベンチに引き返す途中、阿久沢はホッと安堵のため息をついた。
と、2試合連続ホームランの顚末を一通り述べた後、複雑な笑みを浮かべて阿久沢は言った。
「こんな話をしたところで、誰も信用してくれないんじゃないでしょうか……」
投の江川卓、打の阿久沢毅。高校野球オタクの筆者が知る限りにおいて、この2人こそは投打の双璧、この島国が生み出したビンテージである。実力のケタが、他の高校生とは2ケタも3ケタも違っているように見えた。「天才」と呼ぶべきか「怪物」と呼ぶべきか、いずれにしても破格の存在だった。
余談だが、江川が最も速かったのは高校2年から3年の春まで。うなりを生じるボールは、さながら猛禽のように感じられた。打者はプラットホームで新幹線を見送る駅員のように、ただバッターボックスで固唾を呑んで「立ち尽くす」より他にすることがなかった。大学からプロにかけての江川は、寂しいけれど「残酷」以外の何ものでもない。神宮や後楽園では江川によく似た別人が投げていた。
それでも江川卓には、まだ支持者がいる。語るに足る「伝説」もある。翻って阿久沢毅には甲子園での2本のホームラン以外に勲章が見当たらない。残念ながら北関東の球場で量産したホームランには「公認」のハンコが押されていない。未公認の怪物、幻の天才。同世代の筆者にとって阿久沢の存在は、眩しくもあり、また悲しくもある。歴史に「れば」と「たら」は禁句だが、もし阿久沢がプロのユニフォームを着ていたら、日本のプロ野球史は変わっていたのではないか。真底、そう思える逸材であった。阿久沢毅、現在33歳。
十数年程前まで、桐生高のグラウンドの右翼後方には、木造の講堂が建っていた。本塁から、その講堂まで100m近い距離があり、同校のグラウンドルールとして、その講堂の壁に当たった打球はホームランと見なした。高校時代、阿久沢はしばしばその講堂の壁に打球をぶつけた。そればかりか講堂の屋根をはるかに越え、向こう側の校舎の壁を直撃する特大ホームランを放つことさえ珍しくはなかった。
「距離にすると130m、いや140mは飛んでいたと思うねぇ……」
当時の野球部長である森下功は感慨深げに語り、こう続けた。
「阿久沢の打球は、バットに当たった瞬間、ピンポン球のようになり、青空に吸い込まれていくんです。その打球を見たいばかりに近隣から何千人という人が集まる。押すな押すなの騒ぎでブロック塀が倒れそうになることも。警備は桐生の警察署の仕事(笑)。あんなに人を集めることができたのは、後にも先にも彼だけですよ」
他校へ練習試合に行けば行ったで、決まって開校以来初めてという校舎越えのホームランをかっ飛ばし、しばしばそのボールを記念にプレゼントされた。183cmの長身、足も12秒台前半とチーム一の俊足を誇り、加えて守備もよく、野球選手としては非の打ち所がなかった。
(後編につづく)
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