当時の監督である関口信行には、忘れようにも忘れられない記憶がある。その出来事は、センバツ後の足利学園との練習試合で起きた。

 

<この原稿は1994年2月号の『Number』に掲載されたものです>

 

 つい昨日のことのように、関口が振り返る。

「センバツで2本もホームランを打ったので、ちょっとその気になっていたのでしょう。スイングが大きくなり、バッティングも雑になっていた。それで私は怒鳴ったんです。どうせホームランを狙うんだったらレフトに狙えって。その直後、あの子は本当に狙ってレフトにホームランを打ちました。まぁ、予告ホームランですね。驚いたというより、呆れてしまいましたね」

 

 当時の高校球児たちにとっても、阿久沢は憧れの的だった。センバツで2本のホームランを打ったことで、いやが上にも、阿久沢に対する注目度は高まった。6月、桐生高は大阪府高野連から招待を受け、西の雄PL学園との試合に臨んだ。球場は日生球場。PL学園は第2ピッチャーである金石昭人(広島-日本ハム)をマウンドに送った。

 

 結論を先にいえば、この試合、6対2でPL学園が桐生高に完勝した。桐生のあげた2点は、いずれも阿久沢のホームランによるもの。3打数3安打(うちホームラン2本)2打点。阿久沢は金石を完膚無きまでに打ち砕いた。

 

 その金石が振り返る。

「ホームランは右中間と左中間、いずれも打たれた瞬間に入ったと思いました。練習試合とはいえ、ひとりのバッターに2本もホームランを打たれたことはなかったので、ものすごくショックでしたね。とにかくパワーが飛び抜けていました。これぞ超高校級、さすがだなァって印象ですよ。技術もあったから、プロに入っても成功したんじゃないかな。上には上がいるってことが、よく分かりました」

 

 PL学園の当時のエースは現広島カープの西田真二だった。西田は打っても4番を任され、いわばチームの大黒柱だった。夏の甲子園ではチームを悲願の全国優勝に導いた。この日、西田はファーストのポジションから、噂の阿久沢に熱い視線を送っていた。

「とにかく、インパクトの強いバッターやったね。右中間へのホームランは球場の上段に飛び込んだんやから。忘れられんバッターですよ。PLからも金石、ボク、木戸、小早川、阿部……と何人もプロに入ったけど、まぁ、僕らとはスケールが違っていたね。皆で“ああいうヤツがプロに行くんやろうなァ”とささやき合ったものですよ。同い年に豊見城の石嶺(阪急・オリックス-阪神)がいたけど、力的には阿久沢の方が上やったんやないかな。打球が違っていたよ」

 

 小早川毅彦(広島)は学年では、阿久沢や西田の1年後輩となる。2年生で出場したセンバツでは6番を打っていた。ポジションは阿久沢と同じ一塁手。桐生高との練習試合はベンチを離れ、スタンドから見つめていた。

「一番の印象はバッティングが柔らかいということです。アウトコースはレフトへ、インコースはライトへと実に素直に打ち返す。僕もパワーは自信があったけど、巧さの点では脱帽でした。だから高校時代は、ずっと憧れの人でしたよ」

 

 話の最後に、ハンで押したように3人揃ってこう付け加えた。

「それにしても、なぜ彼ほどの選手がプロに来なかったんだろう……」

 

 後のプロ野球選手の心胆を寒からしめたPL学園での2本塁打については、阿久沢もはっきり覚えていた。だが、大して興味は示さなかった。「それよりも、シングルヒットの方が印象に残っています」。またしても、阿久沢は意外なセリフを口にした。

 

「金石君から奪った三遊間をゴロで抜くヒット、あれは僕が理想としていた打球でした。サードもショートも一歩も動けない順転回の打球。打った瞬間“これだ!”と思いましたね。バチッと打ちきることができたんです。あれは今思い出しても会心の一撃です」

 

 理想とする打球の質は、いわばバッターの志のレベルをはかるリトマス試験紙のようなものである。高校生の阿久沢がこだわったものはホームランを前提とした飛距離でもヒットを打つ上での確実性でもなく、バッティングの本質である「打ち切る」という行為そのものであった。「言葉にすると“打撃する”ということ。その極意には、ものすごく興味がありました」。阿久沢はバッティングを哲学としてとらえ、早熟なるがゆえに煩闘した。狭く細い道のりの向こうに見える灯りは、あまりにも遠すぎた。

 

 桐生の街に赤城おろしが吹く季節になって、阿久沢の進路があれこれ取り沙汰され始めた。ドラフト指名の順位にバラツキはあったが、桐生高には12球団全てのスカウトが「ぜひ、ウチに」と言って手土産持参で訪れた。

 

 しかし、当の阿久沢は微塵もプロ入りに興味を示さなかった。母子家庭という事情もあり、親元を離れる気持ちにどうしてもなれなかった。巨人のあるスカウトは勝手に家に上がり込み、重そうな包みを置いて帰ろうとした。日本ハムのスカウトは「本当にプロには行かないんだろうね。もし、どこかに行ったら僕はクビになるんだよ」と恫喝に近いような念を押した。生活のかかった大人の吐息が阿久沢には息苦しかった。

 

 関口(前出)が当時を回想する。

「私も随分。悩みました。バッティングもさることながら、私はあの子の守備の巧さにほれていた。何から何まで天賦の才に恵まれた子でした。それで、おかあさんにこうお願いしたんです。“もし、自分の気持ちを殺してプロを諦めるといっているのなら、将来、きっと後悔するよ。おかあさんは、おまえについていくから、自分の好きな道を歩みなさい”。このように阿久沢君に言ってはくれないかと。おかあさんは、そのとおりに本人に伝えたそうです。しかし、彼の決意はかわらなかった。“大学を出て少年野球の指導をしたい”との気持ちは本当だったのでしょう」

 

 阿久沢は進学を希望しているという話が伝わると、今度は東京六大学が一斉に獲得に名乗りをあげた。阿久沢は同僚の木暮に付き添うかたちで早大のセレクションに参加した。安部球場の場外にスコンスコンとアーチをかけ、帰り際、野球部のマネジャーから受験に必要な手続きの説明を受けた。

 

 翌日のスポーツ紙には<阿久沢 早大入り>の見出しが躍った。しかし、阿久沢の「母親のために地元を離れない」との気持ちはかわらなかった。関口の元には、石田健一早大監督から直々に電話がかかってきた。「何とか阿久沢君を受験させて欲しい」。アマ側の勧誘もプロと遜色はなかった。

 

 プロを拒み、六大も蹴った阿久沢が進路として選んだのは、硬式野球部のない地元の国立群馬大学だった。他の受験者と同じ一般入試。「残された道が一番、危ない道だったわけです」。屈託のない口調で、阿久沢は言った。

「大学進学を勧めたのは私だけど、まさか野球まで実質的にやめてしまうとは……」

 

 桐生高のOBで、卒業後は東映フライヤーズの外野手としてならした毒島章一監督は苦笑を浮かべて言った。当時、毒島はプロ野球に参入したばかりの西武ライオンズのスカウトとして関東地区を担当していた。

「大学にいけば、ゆくゆくはプロに入るにしても仲間ができるでしょう。これが将来の大きな財産となる。高卒だと付き合いの幅が限られる。それで私は大学進学を勧めたのですが、まさか野球までやめてしまうとは考えませんでした」

 

 プロ球界の中で最後まで最も熱心に阿久沢を口説いたのは、南海ホークスの杉浦正胤であった。

 

 阿久沢の名前を筆者が口にするなり、杉浦はすぐさま、話を引き取った。

「ウチは1位か2位でいくつもりでしたよ。最後の口説き文句は“男なら一つ、プロに賭けてみろ!”やったんやけど、“僕はオフクロが安心する世界を選びたい”と言われたら、返す言葉もありませんワ。現場をやめたら“そんな選手おったかいな”と思う選手がほとんどなんやけど、阿久沢だけは忘れられへんね。ホンマ、もったいないことした。今でもそう思いますワ」

 

 もっとも、一方では、こんな意見もある。語るのは「マエタカ」のエースで、完全試合を達成したことで知られる松本稔前橋高校監督。「キリタカ」と「マエタカ」は3年間、甲子園出場をめぐって、しのぎを削った。いわば宿敵である。「彼は欲のないタイプ。性格もやさしいし、生存競争の激しいプロの世界で、人を押しのけてやっていけたかどうか……。プロで成功していたかどうかは、誰にも分からないと思います」

 

 最終的に地元の国立大学に進んだ阿久沢は準硬式野球部に入り、北関東リーグで5度の優勝を飾った。全国の大学からのセンバツチームでブラジルに遠征し、ナショナルチームと戦ったりもした。自らの選択に悔いはなかったが、満足も得られなかった。そんな4年間だった。

 

 卒業後、阿久沢は小学校の教諭となり、2年後に試験を受け直して高校教諭となった。母校に戻り、野球部の監督に就任したのは3年前の春。

 

 群馬県は私立勢が台頭し、阿久沢が卒業して以来16年間、母校は甲子園から遠ざかっている。しかし、チームをあずかる阿久沢に悲愴感はない。

 

「生徒から、なぜ、先生はプロに行かんかったのかと、聞かれることはないですか」

 筆者は訊ねた。

 

「そのつど答えは違うんですけど、今は“彼女に引き止められたんだよ”と言っていますね」

 阿久沢はそう言って、照れ臭そうに笑った。

 

 夕闇のせまる小さなグラウンドで、赤城おろしを背に受けながら、かつての天才打者はノックを始めた。カキーンという球音が北関東の乾いた冬空にこだました。喝采とは無縁でも、球音と暮らすことのできる日々。それが彼の選んだ人生だった。

 

(おわり)


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