miyazaki25「お母さん、私上手くなったから」

 愛媛での生活をはじめたばかりの頃、宮崎早織は母親に電話で近況を伝えた。母・寿美香によれば、電話越しに聞こえてきた娘の声は自信に満ちていたという。“一色(建志)先生に教わりたい”との思いで愛媛県の聖カタリナ女子高へと進学した。自らが成長するために選んだ道は決して間違いではなかった。その手応えが宮崎の声を弾ませたのかもしれない。

 

 カタリナでは1年から試合の出場機会を得た。それは順風満帆な高校生活をスタートさせたようにも見える。当然、バスケットボールプレーヤーとして上達できている実感もあった。だが、それは絶対的な自信を構築するまでではない。むしろ不安の方が大きかったという。宮崎は当時をこう振り返った。

「(通用するという実感は)全然なかったですね。1年目は基礎練習についていくのがやっとでしたし、上手くプレーできなくて先輩に怒られることもありましたから……」

 

 それでもひた向きに努力を続けたのだろう。2011年のU-16日本代表に選ばれるなど、世代でも指折りとなるほどの力をつけていった。持ち味であるスピードを生かしたプレーは、走るバスケのカタリナとは水が合った。U-18日本代表のコーチを務める一色監督の指導のもと、宮崎の進化は加速していく。

 

miyazaki21「一色先生はシュートへいくことには怒らないんです。そのおかげで自分の持ち味が出せました。もちろん試合に使ってくれたのが一番なのですが、ドライブにいったり、シュートを打つことはすごく褒めてくれる。『いいぞ、いいぞ』と言ってくれて、自分の良いところが出せました」

 宮崎がそう述懐するように、ノビノビとプレーすることで、才能は花開き始めた。高2になると完全にレギュラーの座を確保した。カタリナは宮崎を含めた3人のガードをスタメンで起用し、スピーディーでアグレッシブなバスケで全国大会をかき回した。夏に北信越で行われた全国高等学校総合体育大会(インターハイ)では同校初の準優勝を果たしたのだった。

 

 掲げた“打倒・桜花”

 

 決勝の相手は、高校女子バスケ界の名門・桜花学園(愛知)。司令塔の山田愛(2年)を擁し、インサイドは河村美幸(3年)、馬瓜エブリン(2年)のツインタワーで圧倒的な強さを誇った。宮崎も得意のドライブで敵陣に幾度となく切り込んだ。アウトサイドからのシュートもよく決まり、2ケタ得点を稼いだが、チームは74-90と完敗に終わった。

 

 雪辱の機会は冬にやって来た。3年生にとっては最後の大会となる全国高校選抜大会(ウィンターカップ)。カタリナは順調に勝ち上がり、決勝へとコマを進める。カタリナ初の全国制覇まで、あと1勝――。再び桜花との決戦を迎えた。

 

miyazaki18 試合はチームがなかなかスコアできず、嫌なムードが漂っていた。重苦しい空気を打開したのは斬り込み隊長の宮崎だった。第1クォーター(Q)1分35秒、宮崎はスリーポイントラインからワンフェイクを入れ、マークを揺さぶる。その一瞬のスキに中へと切れ込んでジャンプシュートを決める。スコアボードに「2」の数が灯り、チーム初得点を挙げた。

 

 停滞ムードが払拭されると、開いていた点差も徐々に詰まっていく。前半を42-47の5点差で追えると、第3Q途中で逆転する。桜花に引っくり返されたが、第4Qに再逆転。一時は4点のリードを奪った。しかし、残り5分16秒で勝ち越しを許すと9点差で敗れた。

 

 またしても全国制覇を阻まれ、カタリナを卒業する最上級生たちは涙を流した。その姿に「先輩たちが悔しくて泣いていたのを見て、“先輩たちの分も絶対勝ちたい”と思いました」と宮崎ら下級生たちは“打倒・桜花”の想いを胸に刻み込んだ。

 

 宮崎はこれまで全国大会で優勝したことがなかった。当然、高校生活最後の1年に懸ける気持ちは強い。そのためにも“打倒・桜花”だった。

「桜花を倒せば怖いものはなかった。桜花に勝ったら他のチームにも絶対勝てると思えたんです。だからずっと勝ちたかった。ずーっと桜花が目標でした」

 

 まさかの恩師の離脱

 

“打倒・桜花”を掲げた1年。宮崎も最上級生としてチームをコート内外で引っ張る立場となった。しかし、その時のカタリナの体育館に一色監督の姿はなかった。ジュニア日本代表のコーチに専任することになったからだった。後任にはOGの尾下佳子が就いた。

 

miyazaki27 一色監督は、宮崎にとってプレーヤーとして、1人の人間として育ててくれた恩師である。

「人を思いやる気持ちや、周囲の人のおかげで自分が良い環境で学ぶことができているということを一色先生からは教わりました。それまではバスケをやるのが当たり前、できて当たり前、バッシュを買ってもらうのも当たり前と思っていました。“親が働いて頑張ってくれたおかげで自分はバスケができるんだ”と気付かせてくれた一色先生にはすごく感謝しています」

 宮崎がアンダーカテゴリーの代表に入り、“天狗”になりかけた時にビシッと一喝してくれたこともある。

 

 特別な存在ゆえ、ショックの大きさは計り知れない。それでも宮崎は体育館から、バスケから離れようとは思わなかった。「一色先生がいなくなった時にはすごく泣きました。でも、一色先生が託した尾下先生に“ついていこう”と思いました。一色先生がいない分、自分たちが“頑張ろう”と。後輩たちもついてきてくれたので、私たち3年生も頑張れましたね」

 チームの危機が結束力を強めたのかもしれない。“このチームを支えよう”“先輩たちが積み上げてきたものを崩さずに頑張ろう”とそれぞれが奮起した。

 

 叶わなかったリベンジ

 

 結局、全国大会のタイトルには手が届かなかった。宮崎が「心残りですね。今でも思い出したら悔しくなります」と振り返るのが、3年のウィンターカップだ。宮崎の代の選手たちにはとっては最後の公式戦である。

 

 この年のインターハイで3位に入ったカタリナは3強の一角に挙げられていた。3強のうち優勝の大本命はインターハイ女王の桜花だった。監督が尾下から田村佳代コーチに代わっていたカタリナだが、走るバスケは変わらない。ゲームキャプテンの宮崎を中心に2回戦、3回戦、準々決勝と勝ち上がっていった。

 

 準決勝で宿敵・桜花とぶつかった。宮崎の代にとっては、目標としてきた“打倒・桜花”を実現するラストチャンスだった。そのせいかカタリナの選手たちの動きは硬かった。宮崎は第1Qの6分間、1得点も奪えなかった。「“自分の責任だ”と思って、でも全然上がっていかなかった。あの時はすごく緊張していましたね」と宮崎。第3Q終盤まででスコアは32-61と、この試合最大の29点もの差が開いた。観客の多くが桜花の決勝進出とカタリナの準決勝敗退を予想したことだろう。

 

miyazaki30 だが、ドラマはここからだった。カタリナは第3Q終了間際に得点を返し、37-61で第4Qを迎える。出足から激しいプレスで桜花を追い込む。開始早々に連続得点。第3Q終了時点で5得点と鳴りを潜めいていた宮崎は、鋭い読みからスティールを連発した。カタリナは残り6分で12点差まで詰め寄った。桜花ベンチもたまらずタイムアウトで流れを切ろうとする。

 

 ノリに乗っているカタリナの勢いは止まらない。4分20秒、宮崎はゴール正面のスリーポイントライン付近でボールを受け取った。左右の動きで相手を揺さぶるクロスオーバーで、道を拓く。ドライブでそのまま切り込むと、相手のブロックを巧みにかわしシュートを決めた。その際にファウルをもらっており、バスケットカウントでワンスロー。宮崎はフリースローも着実に入れた。彼女のスピード、テクニック、決定力が凝縮された3点プレー。ついに点差を9点と1ケタに戻した。

 

 その後もカタリナは高い位置からの激しいプレスで、桜花に余裕を与えない。4点差に詰め寄り、残り1分。宮崎が再びドライブからファウルを誘い、フリースローを得た。1本目は外したが、2本目を決めて3点差。続く桜花の攻撃は不発に終わり、残り25.6秒でカタリナボールとなった。

 

 残り時間は刻一刻と減っていく。桜花も必死のディフェンスでカタリナにシュートチャンスを与えない。10、9、8、7……。ここで2年生ガードの曽我部奈央がスリーポイントを狙う。放物線を描いた550グラムほどのボールはリングへと向かっていった。入れば同点――。観衆が固唾を飲んで見守ったボールの行方は、無情にもリングに弾かれた。こぼれたボールは桜花の選手がリバウンド。スコアは65-68のまま動かなかった。直後にブザーが鳴った。

 

 カタリナの猛烈な追い上げは及ばず。“打倒・桜花”の夢は叶わぬまま散った。シュートを外した曽我部は自らを責めるように泣きながらコートを後にした。宮崎は「後輩に打たせてしまった自分たちに責任を感じています」と悔やんだ。翌日の3位決定戦で勝利し、最後は笑顔で終えた。

 

 次なるステージは、Wリーグ(バスケットボール女子日本リーグ)である。小中高と全国制覇とは縁がないまま過ごした宮崎は、名門JX-ENEOSサンフラワーズに入団する。日本代表を数多く輩出し、優勝を義務付けられた常勝軍団。高い壁であることは理解していた。だが、チャンスは意外にも早く巡って来た――。

 

(最終回につづく)

 

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宮崎早織(みやざき・さおり)プロフィール>

miyazaki131995年8月27日、埼玉県生まれ。小学3年でバスケットボールを始める。南古谷アクロス、与野東中を経て、愛媛県の聖カタリナ女子高に進学した。聖カタリナでは1年から試合に出場し、2年時には主力として全国高校総合体育大会(インターハイ)、全国高等学校選抜優勝大会(ウィンターカップ)での準優勝に貢献した。3年時にはインターハイとウィンターカップで3位に入った。高校卒業後はJX-ENEOSサンフラワーズに入団。1年目から出場機会に恵まれWリーグ、全日本総合選手権大会の2冠を経験した。身長166センチ。背番号は32。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 


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