第102回 代理人とのすれ違い ~松原良香Vol.10~
言葉、風習の違う国へ移籍する場合、鍵となるのは代理人である。
代理人の職務は、選手と代理人契約を結び、選手の代わりにクラブと交渉して契約をまとめることだ。契約成立の暁には、契約金あるいは年俸から一定のパーセンテージの手数料を受け取る。そのため彼らは、顧客選手が一つのチームに居続けるよりも、大金が動く移籍を薦める傾向がある。
サッカー選手の“賞味期限”はそれほど長くない。脂の乗った時期にどのクラブに売り込むのか。代理人の腕が、選手のサッカー人生を左右することも少なくない。
松原の代理人は、三浦知良のジェノア移籍をまとめたイタリア人――Mだった。
松原はMから突然呼び出されてスイスのFCチューリヒのテストを受けることになった。1試合目ではそれなりの結果を残し、監督から翌日の練習試合に出したいと言われた。相手はドイツの名門バイエルン・ミュンヘンだった。多少走り込んでいたが、やはりオフシーズン明けの躯だった。各国代表揃いのバイエルンを相手に自分の力が出すことはできず、テストには合格できなかった。
悔しく思った松原は1カ月半、チューリヒに居残ることにした。FCチューリヒの練習に参加し、躯をシーズンに向けて作ったのだ。ただし、滞在費は自費である。当初、Mは後から自分が払うと言ったが、その約束は守られなかった。
クロアチアのリエカが望んでいた契約延長の話はすでに霧散していた。各国リーグが始まろうとしている中、松原は焦っていた。松原はMに「早くクラブを決めてくれ」と訴えた。すると彼はこう答えた。
――良香を2部でプレーさせたくないんだ。
松原はこう振り返る。
「1部のチームがあるならばそれでもいい。でもないって言うんですよ。じゃあ、どこでもいいからやらせてくれと。そうしたら、ギュータースローというクラブの話を持ち込んできたんです」
Mは松原にこう説明した。
――今季は3部リーグにいるが、昨シーズンまでブンデスリーガの2部にいた。ドイツでは3部までをブンデスリーガと呼ぶ。そこで試合に出られれば、ドイツの場合はすぐに次のチャンスが来る。
そしてクラブのレターヘッドに書かれた条件を見せた。
「月50万円ぐらいでしたかね。家と車、日本往復のチケットつき」
悪くない話だった。
FCギュータースローは、ノルトライン・ヴェストファーレン州のギュータースローに本拠地を置くクラブだった。1978年設立、チームカラーは明るい緑色。96年から前年の99年シーズンまではブンデスリーガ2部に所属していた。
ギュータースロー行きは、到着から波乱含みだった。
「空港まで行けば、Mの手配した別の代理人が迎えに来ていると聞かされていたんです。それで朝イチの便で行きました。朝の7時ごろ着いたはずです。そうしたら誰もいない」
同じ欧州でも言語が違う。Mはドイツに詳しい別の代理人を噛ませたのだ。松原はその代理人の連絡先を聞かされていなかった。
Mに電話をしたが、早朝ということもあるだろう、繋がらない。数時間後、ようやく折り返し電話があった。ドイツの代理人が到着する時間を夜だと勘違いしていたのだという。迎えの車がやってきたのは午後になっていた。
日々、低下していく提示条件
このドイツの代理人はスペイン語を話すことができた。ようやく迎えが来たこと、そして自分の慣れたスペイン語が通じることでほっとした松原は「本当は自分はクロアチアのリエカでプレーするつもりだったのに、こんなことになってしまった」と思わず愚痴をこぼした。
すると――。
その言葉をドイツ人の代理人はMに伝えた。
「怒られましたよ。そんなに文句を言うんだったら自分でやれよって。今の時期、自分でやれと言われても困るじゃないですか」
お前がちゃんとやらないからじゃないか、ふざけるなという思いを飲み込んで、松原は電話で「すまなかった」と謝った。
FCギュータースローは3部ではあったが、設備の整ったクラブだった。
松原は最初から力を見せつけた。
「紅白戦で5点ぐらい取ったんですよ。そうしたらもの凄く気に入ってもらえて、すぐに契約したいと言われた。次の日からクラブのGM(ゼネラル・マネージャー)がぼくをホテルから練習グラウンドまで車で送り迎えしてくれるようになった」
このGMもスペイン語を話すことができた。
「お前みたいな選手が欲しかったと褒めてくれるんです。それでぼくは当然、このクラブに入るつもりになっていました」
しかし、正式契約がなかなかまとまらなかった。Mが他の仕事で忙しかったのか、ギュータースローに来なかったのだ。
そんな2人の間の溝を感じとったのだろう。ドイツ人の代理人がこんなことを言い出した。
――Mとやっても駄目だ。俺を代理人にしないか? お前の要望は何だ? 奥さんを日本から呼びたい? 俺が全部手配してやる。
とはいえ、Mにも恩義がある。
移籍期間は各国リーグによって決められている。最後、駆け込みの契約を狙った選手たちが、次々とクラブの練習に参加していた。中に計算できる選手もいたのか、あるいは、クラブの経営の雲行きが怪しいためか、松原への条件提示額は次第に下がっていった。
「言われる金額が毎日落ちていくんです」
Mに早く来てくれと心の中で願うしかなかった。
(つづく)
■田崎健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。