2人の男が並んでいる。銀行員と編集者。どちらがどちらなのかをあてるのは、たぶん、それほど難しいことではない。銀行に勤めていれば銀行員らしく、編集部で働いていれば編集者らしくなっていく。

 

 だから、サッカーの監督という職業は、いささか例外的である。

 

 というのも、いままでずいぶんといろいろな監督と会ってきたが、わたしの中ではいまだにこの職業に共通する匂いや空気を判別できずにいる。

 

「え、あなたが?」とビックリするような監督にあった回数は、銀行員らしくない銀行員、編集者らしくない編集者に出会った回数よりはるかに多い。

 

 ただ、その理由はわからない。サッカーの監督に求められる資質は、あまりにも多岐にわたっているからである。

 

 監督とは、理論的でなければならない。そう考えて、徹底的に理を詰めていくタイプの監督がいる。

 

 監督とは、勝負師でなければならない。そう考えて、勝負勘を養うギャンブルを愛した監督もいた。

 

 監督とは、扇動者でなければならない。そう考えるタイプの監督は、とにかく言葉の使い方と使うタイミングがうまい。

 

思うに、いまや世界最高の知将と言われるグアルディオラなどは典型的な理詰めのタイプである。完璧な理論。完璧な実践。ただし、選手を疲弊させる。ゆえに、自ら見切りをつけて一定期間でチームを去っていく。案外一発勝負に弱いのも、こうしたタイプの特徴かもしれない。

 

 元日本代表監督のザッケローニ氏も、どちらかと言えばグアルディオラのタイプだった。美しいサッカーを志向し、いいチームをつくる。半面、苦境に陥った時、バクチが必要な場面では硬直してしまうことも多かった。

 

 いまや勝負師タイプの象徴となりつつあるのは、欧州CLで決勝に進出したA・マドリードのシメオネだろう。ファイターとして知られた現役時代さながら、限られた駒たちを完全燃焼させる術に長けている。どちらかというと、相手の良さを消すスタイルなのだが、しかし、そのサッカーは見るものの胸を強く打つ。

 

 五輪代表の手倉森監督は、そのモチベーターぶりが光る。震災で国中が被った大きな傷をチームのエネルギーに変えた、なでしこの佐々木監督とダブってみえるのはわたしだけだろうか。

 

 リオの本大会では厳しい組に入った日本だが、手倉森監督はそこを勝ち抜けば優勝も……と口にしていると聞く。このあたり、選手が優勝を口にしているのを知りながら、自分では一切そうしたことをいわなかったザッケローニ氏とは実に対照的だ。この2人がコンビを組んでいたら、互いに補完し合ういいコンビになっていたかもしれない。およそ、同じ職業に就いているとは思わなかっただろうが。

 

<この原稿は16年5月12日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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