昨年のことである。たまたま入ったカラオケ屋の隣の部屋でカープファンとおぼしき若者たちが声を張り上げていた。

 

 ♪優勝が終わって 僕らは生まれた 優勝を知らずに 僕らは育った

 

 ジローズが70年に発表し、大ヒットした「戦争を知らない子供たち」(北山修作詞、杉田二郎作曲)の替え歌である。

 

 広島カープが最後にリーグ優勝したのが1991年(平成3)。つまり平成生まれの若いファンにとって、赤ヘル軍団の武勲は歴史上の出来事なのだ。

 

 長きに渡る雌伏を経て、カープが四半世紀ぶりの優勝に向け、着々と白星を積み重ねている。この快進撃を誰よりも喜んでいるのは、“炎のストッパー”と呼ばれた泉下の津田恒実ではないだろうか。

 

 津田の最後の登板は91年4月14日、広島市民球場での巨人戦だ。1点リードの8回、北別府学をリリーフした津田は、わずか9球でKOされ、敗戦投手となる。直後、津田は監督の山本浩二に、こう直訴した。「ちょっとしんどいから2軍に落としてください」。「何を言うとるんや。まだ始まったばかりやないか」。翌日、広島大学病院で検査したところ悪性の脳腫瘍であることが判明した。

 

 津田には無二の親友がいた。前オリックス監督の森脇浩司である。広島から南海(89年より福岡ダイエー)に移籍していた森脇は3月、平和台球場でのオープン戦を終えた後、食事をともにした。「最近、疲れが取れないんや……」。森脇が津田の異変に気付いたのは、この時である。

 

 森脇の回想。「8月になると、どんどん病状が悪化して福岡の済生会病院に入院した。遠征先への移動日の朝、彼を見舞うと、20キロくらい痩せていて、目だけがギョロッとしている。握手をしても、全く力が入らない状態でした」

 

 津田の戦線離脱により、締めくくり役を一手に引き受けたのが大野豊である。開幕前、山本は津田と大野のダブルクローザーを予定していた。大野は語ったものだ。「病魔と闘っている津田のためにも頑張ろう。それがチームの合言葉でした。この年は、まるで僕の背中に津田がいて、2人で投げているような錯覚にとらわれたものです」。2年に及ぶ闘病の甲斐なく津田は93年7月20日に息を引き取った。もうすぐ23回目の命日が巡ってくる。

 

<この原稿は16年7月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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