リオデジャネイロ五輪開幕まで残り1カ月を切った。日本人メダル第1号を期待されているのが、ライフル射撃男子日本代表の松田知幸だ。五輪3大会連続出場の松田は、今年1月のアジア予選大会で優勝するなど、順調な仕上がりを見せている。過去2大会の五輪では、08年北京大会で50メートルピストル8位入賞。ロンドン大会は金メダル候補に挙げられながら2種目で予選敗退に終わっている。“3度目の正直”で悲願のメダル獲得なるか――。彼が日常から行っている“精神修行”の一端を、4年前の原稿で見てみよう。

 

<この原稿は2012年6月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 

 氷のような冷静さと針のような集中力が求められる競技――それが射撃である。

 

 ロンドン五輪のピストルで金メダルを目指す松田知幸は一昨年8月に行われたミュンヘンでの世界選手権で2つの五輪種目を制した。

 

 五輪ライフル射撃の男子ピストルは50メートルピストルと25メートルラピッドファイアピストル、10メートルエアピストルの3種目からなる。

 

 松田が優勝したのは50メートルと10メートル。予選ではそれぞれ60発の発射弾数で点数を競い合う。制限時間は10メートルが1時間45分(男子)、50メートルが2時間だ。

 

 予選を勝ち抜いた上位8人がさらに10発ずつ発射し、合計点数で最終順位が決まる。

 

 最高得点となる10点圏の的は50メートルが直径5センチ、ほぼ一般的な缶コーヒーの直径と同じ大きさだ。一方、10メートルの的は直径1.15センチ、これはタバコのフィルター程度の大きさだ。

 

 北京五輪の金メダリストは709満点で前者が660.4点。後者が688.2点。大げさではなく、たったひとつのミスが命取りとなる。

 

 余程、プレッシャーに強くなければ、射座で最高のパフォーマンスを披露することはできないのではないか?

「いや、僕はめちゃくちゃ緊張するタイプなんですよ。試合前に吐くことだってあるんですから……」

 

 開口一番、松田は意外なセリフを口にした。

「まあ吐くといっても胃液が出る程度ですが、きっと極度の緊張状態にあるんでしょうね。まわりからは“オマエは精神的に強い”とよく言われるんですが、全然逆。緊張している様子を見せないようにしているだけです」

 

 いかにして感情の起伏を抑え、邪念を消し去るか。試行錯誤の末に松田が行き着いたのが「日常での精神修行」だった。

 

 松田は語る。

「たとえば車に乗っていて渋滞に巻き込まれたとします。昔なら“チクショー、何で渋滞してんだよ”とイライラしていたと思うんです。しかし、このイライラこそが射撃においては最大の敵。だから今はこう思うことにしているんです。“よし、イライラしている自分がいる。ここは冷静にならなければならない。ここで気持ちが乱れなければ、試合でも踏ん張れるかもしれない”と……」

 

 松田は目の前に楽なこととつらいことを必ず二つ設定する。雨が降っている。走るべきか休むべきか。

 

「よし、しんどそうだから走ろう」

 坂を上ろうか、下りを走ろうか。

 

「よし、苦しそうだから坂を上ろう」

 間断なく精神的な負荷をかけ続け、追い込まれている状況を常態化させる。これぞ究極のストレステストだ。

 

 苦難、難行から逃げず、歯向かわず、ただ、ひたすら向き合い、耐えしのぐ。喜怒哀楽を表に出すなどもってのほか。この、いわば“精神の断食”のような修行の向こう側にこそ、黄金色に輝くメダルはあると彼は信じている。

 

 警察官だった父親に憧れて自らも同じ道を歩んだ。警察学校に入学して初めて拳銃を握ったが「(拳銃を)正確に扱うことに一生懸命で、初めて撃った時の印象はほとんどない」と本人は語る。

「むしろ、最初のうちは射撃は僕に合わないと思っていた。スポーツは学生の頃から得意だったので声出して走ったり、柔道をやったりするのは好きだったんですが、じっと的を狙って撃つのはちょっと……という感じでしたね」

 

 転機が訪れたのは2001年の国体予選。警察の全国大会出場を目指し「訓練の一環」として出場したところ、好成績を残して神奈川代表に選出されたのだ。宮城国体では5位入賞を果たした。

「その国体には五輪代表選手も含めナショナルチームの面々が揃っていた。自分でもよく入賞できたな、と思いました。それからはトントン拍子。結果が出るから頑張る。日常生活から射撃のことばかり考えるようになりました……」

 

 初めて出場した五輪(北京)は10メートルこそ18位だったものの、50メートルでは8位入賞を果たした。一昨年の世界選手権を制したことで「今度こそは」との思いは誰よりも強い。

「しかし世界選手権と五輪は全く別物だと考えています。北京のメダリストはロンドンにも出てくる。私はその者たちに戦いを挑まなくてはならない。いくら世界選手権で勝っているからと言って、その勲章が通用するほど五輪は甘くない。ただ自分の力さえ発揮できれば、負けることはないと思っています」

 

 気分転換も大切だ。二人の息子と公園でバスケットして気を紛らわす。それでも右手は使わない。突き指でもしたら五輪どころではなくなるからだ。

 

 暑くなると必ず手袋をして寝る。射撃は指の腹が命。蚊にでも噛まれてしまったら、パフォーマンスの低下は避けられない。射撃はそれくらいセンシティヴなスポーツなのだ。

 

 今年に入ってからはフォームも微妙に変えた。これまではズボンの前の部分に左手の親指を入れるスタイルだったのを、ポケットに挿入するかたちに変えた。

 

「まわりからは、ほんの1ミリ変わったか変わらないかに見える世界なんでしょうが、自分ではものすごく苦労して変えている感覚があるんです」

 

 松田は苦笑を浮かべて言い、こう続けた。

「前のフォームだと、やや前屈みになっていたんです。これだと体が揺れる。ちょっと揺れただけで10点が9点になっちゃう時がある。それを防ぐ意味も込めて、今は胸を張り、姿勢を正すイメージをつくろうとしているんです。まだ撃つことだけに集中できない状態ですが、ロンドンまでには完璧にしようと考えています」

 

 金メダルを射抜く戦いは、もう始まっている。

 


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