マイナースポーツ
(写真:ペドロは2年前のワールドカップ覇者。その実力を遺憾なく発揮した) 国際スラックライン連盟(WSFed)公認大会である「GIBBON 日本オープンスラックライン選手権大会2017」は10月21日から2日間、東京・二 […]
(写真:会見で意気込みを語るキルケリー監督<中央>) 日本が過去最多41個のメダルを獲得したリオデジャネイロ五輪。28競技で唯一、男女共に日本代表の出場がなかったのが、ハンドボールだった。熱狂の蚊帳の外に置かれる屈辱を味 […]
(写真:優勝したアレックスは19歳。常に進化を遂げている) 国際スラックライン連盟(WSFed)公認大会である「GIBBON 日本オープンスラックライン選手権大会2016」が3日から2日間、東京・二子玉川ライズで行われた […]
サーフォノミクスという言葉がある。直訳すればサーフィン経済。世界におけるサーフィン人口は3000万人~4000万人。市場規模は「米国だけで20億ドル超」(日本経済新聞7月20日付)という。 この国にサーフィ […]
リオデジャネイロ五輪開幕まで残り1カ月を切った。日本人メダル第1号を期待されているのが、ライフル射撃男子日本代表の松田知幸だ。五輪3大会連続出場の松田は、今年1月のアジア予選大会で優勝するなど、順調な仕上がりを見せてい […]
(写真:福田をはじめとしたトップライナーがメディアに取り上げられることも増えた)「あ、スラックラインやってる」と足を止める人がいれば、得意気に「あれ、スラックラインっていうんだよ」と説明している人もいた。5月の週末、東京 […]
32年ぶりの五輪出場を決めた水球日本代表は「ポセイドン・ジャパン」と呼ばれる。ポセイドンとはギリシャ神話に登場する海と地震を司る神。最高神ゼウスに次ぐ実力を誇ると言われる。 ところが、この愛称、監督の大本洋 […]
(写真:大賞に輝いた泉宗選手) 第15回を迎えた大亀財団スポーツ賞の表彰式が10日に松山市内で行なわれた。国際レベルで活躍した選手、指導者及び支援、協力者や環境づくりに貢献した人に贈られるスポーツ大賞にはボウリングの泉宗 […]
6日、国際スラックライン連盟(WSFed)公認大会の「GIBBON 日本オープンスラックライン選手権2015」が東京・二子玉川ライズで行われた。オープンクラスは女子の部で福田恭巳が5連覇を達成。男子の部は中学2年の田中輝登が初優勝を果たした。シニアクラスでは田中の父である健雄が制し、ジュニアクラスは小学2年の林映心が初優勝した。
「何あれ? すごくない!?」。5月の週末、東京・世田谷にある複合商業施設の二子玉川ライズに訪れた人たちが歩みを止め、見慣れないスラックラインという競技に惹き付けられていた。16日、国際スラックライン連盟(WSFed)公認大会である「GIBBON CUP」第1戦が二子玉川ライズで行われた。片足ほどの幅もない細いライン上で、音楽に乗りながら華麗に舞うライダーたちのパフォーマンス。立ち止まった多くの観客からは拍手が送られ、会場は大いに沸いた。
「階級を53キロから56キロに上げてみたらいいんじゃないか?」 2012年10月の国民体育大会終了後、権田達也は中央大学重量挙部の同級生からこうアドバイスされた。権田は大学に入って記録が伸びなくなり、スランプからの脱出を模索していた。彼は同級生の助言を受け入れて階級アップを決意。すぐに食事量と筋力トレーニング量を増やし、56キロ級で戦う体づくりに着手した。すると、この決断が吉と出た。それまで何をやっても伸びなかった記録が急激に向上したのだ。「スナッチでいえば約10キロも記録が伸びました。記録がまた向上してきたので、やっぱり重量挙げって楽しいなと思いましたね」と権田。彼は階級アップをきっかけに新たなパワーを手にし、失いかけていたウエイトリフティングへの情熱も取り戻したのだ。
「今日はバーベルが軽く感じる」 2011年8月、権田達也はインターハイのウエイトリフティング男子53キロ級に出場した。冒頭のコメントは、スナッチの1回目を挙げた時の感触である。ライバルと目されていた選手はスナッチが得意種目だったが、権田はライバルを上回ってトップ(87キロ)につけた。そしてジャークでもトップ(113キロ)となり、トータル200キロ。権田は目標にしていた日本一を、完全優勝で成し遂げた。優勝が決定した瞬間、会場には権田と監督の石川洋平が抱き合って喜ぶ光景があった。
ウエイトリフティングを始めて約1年後の2010年3月、権田達也は全国高校選抜大会に臨んだ。自身を「試合などで緊張してしまうタイプ」と分析する権田は、スナッチを3回連続で失敗し、失格してしまった。初の大舞台で極度の緊張に陥ったのだろう。ほろ苦い結果となったが、権田は意外にも「勝負できるかもしれない」と感じたという。ジャークで挙げた98キロが全体で5番目の記録だったのだ。1位の記録は122キロだったが、2位の105キロと権田の記録は7キロ差。スナッチを成功させていれば、表彰台を争う可能性があった。権田は記録を残すことはできなかったが、「全国レベルでも戦える」という自信を持ち帰った。
権田達也とウエイトリフティングの出合いは突然だった。新居浜工業高校に入学して間もない2009年4月、身体測定が行われた。この時、権田はひとりの教員から声をかけられた。その教員こそ権田をウエイトリフティングの世界へ導いた同校重量挙部監督・石川洋平である。実は石川は、ウエイトリフティングで活躍できそうな人材を探していたのだ。石川は権田の姿を見た時、「どうしても欲しい」と思ったという。一体、石川は権田のどのような部分に目が留まったのか。
プラットフォーム(競技を行う舞台)の上に存在するのは、選手とバーベルだけ――それがウエイトリフティングの世界だ。自身の体重の倍近いウエイトのバーベルを頭上まで引き上げ、成功のブザーを待つ。時間にして数秒ではあるが、選手はその数秒にすべてをかける。中央大学重量挙部の権田達也(3年)は、そんな競技の魅力に取りつかれたひとりだ。権田は新居浜工業高校時代にインターハイ、国民体育大会を制覇。進学した中央大では今年に入って全日本学生個人選手権、国体(長崎、成年56キロ級)で優勝するなど、日本屈指のリフターになりつつある。
「ボートを漕ぎたくない」 大学3年時の谷川早紀は、それほどまでに悩んでいた。全日本大学選手権(全日本インカレ)、全日本選手権で連覇を逃し、個人としては無冠に終わった。4年生は引退し、チームでは谷川たちの学年が最上級生となっていた。
苦悩の日々だった早稲田大学での1年目は冬を越え、春を迎えた。しかし、学年の変わった新たなシーズンでも、谷川早紀は順風満帆なスタートを切れなかった。
ボート強豪校の今治西高校で、谷川早紀は1年時から主力を任された。2年時はチームの誰よりもタイムが速く、愛媛県総合体育大会ではシングルスカルで上位に入った。その実力は指導する井手勝敏監督も「他の高校生と比べても能力的にはトップクラス」と認めていた。だが、なぜか試合となると勝ち切れず、全国大会(インターハイ)にはあと一歩進めなかった。
「初めてボートに乗った時は感動しました」 名門・早稲田大学漕艇部の谷川早紀は、その時の感激を今でも忘れられない。今治西高校に入学する直前の2月、漕艇部に入部することを決めていた谷川は練習に参加した。1学年上の先輩と2人乗りの艇に乗り込んだ。その時はボートについて右も左も分からなかった谷川は、あくまで乗っただけ。あとは先輩に漕いでもらったのだ。「先輩が1回漕いだだけで、ボートがサァーッと進んだんです。その感覚に『おぉー』と感動したのを覚えています」。元々は野球少女だった谷川が現在もオールを漕ぎ続けているのは、その時に味わった艇が進む快感を、忘れられないからだ。
湯浅菜月は日本大学に進学した後も、結果を残し続けている。10メートルエアライフル(AR)では、2011年に日本学生選抜ライフル射撃選手権(個人、団体)、12年には全日本女子学生ライフル射撃選手権(個人)を制覇。大学1年の冬から始めた50メートルライフル3姿勢でも、13年の全日本女子学生(個人)で優勝した。そんな湯浅の実力について、日大射撃部の齊藤政之監督は「学生ナンバーワンと言っても過言ではない」と太鼓判を押す。彼女の「プロになる」という目標に、着実に近づいていると思われた。しかし、湯浅は最近まで「競技生活は大学までかな」と考えていたという。
「撃つことだけに集中しろ」 2010年9月、湯浅菜月は国民体育大会(千葉)に徳島県代表として出場していた。湯浅はその年、3月に全国高校選抜を制覇すると、8月の高校選手権でも優勝し、国体でも優勝候補にあがっていた。しかし、初日に体調を崩した影響で、少年女子10メートルエアライフル(AR)40発は予選敗退。残す同10メートルAR20発が、高校三冠達成のラストチャンスだった。冒頭の言葉は、その10メートルAR20発に臨む際、成年男子徳島代表の木内栄一郎(徳島県スポーツ振興財団)にかけられたものだ。湯浅は、この言葉が「頭の中にポーンと入ってきた」という。
「トップの点数は誰の記録なの?」 2008年11月、全国高校選抜ライフル射撃選手権四国大会の女子10メートルエアライフル(AR)40発で、競技結果を見た選手たちからこのような声が漏れた。そんな高記録をマークしたのは湯浅菜月。点数は385点で、全国大会でも決勝に進出できるほどの成績だった。しかし、湯浅は周囲の驚く反応を不思議がった。
「運命的なものを感じましたね」 これは湯浅菜月が射撃に出合った時の感想である。湯浅は現在、日本大学射撃部に所属し、2012年度からナショナルチームに選出されている。専門はライフル射撃で、16年リオデジャネイロ五輪出場を目指している。そんな彼女が射撃競技に出合ったのは、高校1年のちょうど今頃だった。
2012年7月、車椅子卓球・中出将男は眠れない夜を過ごしていた。その日、海の向こうではロンドンパラリンピックの代表選手の選出が行なわれていたのだ。ロンドンへの切符は20枚。当時の中出の世界ランキングは20位だった。 「選考結果は国際卓球連盟パラリンピック卓球委員会のHPに掲載されることになっていました。僕はもういてもたってもいられなくて、夜中の0時からずっとHPをチェックしていました。でも、少し経って気付いたんです。まだ現地は日付が替わっていないんだって。我ながらアホやなぁと思いましたよ(笑)」 いつの間にか眠ってしまった中出が選考結果を知ったのは、翌日の夕方だった。結果を目にした中出は泣かずにはいられなかった――。
田中蕗菜は2010年、同年のアジア競技大会の代表候補に選ばれた。しかし、選考後に発表された代表9名のなかに、彼女の名はなかった。アジア大会はセパタクロー界において、キングスカップと並ぶ最高峰の大会。それだけに田中は「悔しかったですね」と、胸の内を語り、そしてこう続けた。「あの時に落選してよかったと今は思っているんです。落ちたことで、今までやってきた練習方法などを見直しました。すると、翌年からプレーの感覚が変わったんです」 それは、彼女が一段階レベルアップしたことを意味していた。