大林素子(キャスター・女優)<後編>「夢は大河ドラマ出演」

facebook icon twitter icon

二宮: そば焼酎『雲海』のソーダ割り「そばソーダ」は、今日のような蒸し暑い日にはもってこいですね。
大林: そうですね。本当にすっきりしています。そろそろロックもいただいてもいいでしょうか。私、今日は飲むぞっていうときは、ロックでグッとやるのが好きなんです。

 


大林さん対談後編IMG_7402二宮: どれくらい飲まれますか。
大林: ロックなら4、5杯はいけると思います。水割り、お湯割りといろいろありますが、おなかがタポタポになるから、飲みたいときはロック派です。

 

二宮: ではグイグイとグラスを傾けながら、話を続けましょう。
大林: 望むところです(笑)。

 

五輪の思い出がない

 

二宮: 大林さんは全日本のエースアタッカーとして、オリンピックに3度出場しました。88年ソウル、92年バルセロナ、96年アトランタ、どの大会が印象に残っていますか。
大林: いや、それが、オリンピックの思い出というのがあまりないんですよ。

 

二宮: えっ? 最高の晴れ舞台ですよ。
大林: 21歳のとき初めての五輪(ソウル)に出場して、準決勝で勝てるはずだったペルー相手にフルセットで負けた。その印象だけが残ってて、あとは場所も対戦相手もあやふやです。

 

二宮: それだけ集中して必死だったってことでしょうか。会心のスパイクはこれだった、そんな思い出もありませんか。
大林: 全然ないんです。たぶんオリンピックで勝ってないから、覚えてないんだと思います。メダルを取っていると、そこには色が付いて思い出として輝いてくるんでしょうね。

 

二宮: 勝ってないとおっしゃいますが、それでもソウルは4位、バルセロナでは5位ですよ。
大林: いや、バレー界ではメダルのない人間は敗者なんです。ここははっきりしてますね。

 

二宮: 確かに当時の日本女子バレーの状況を考えればそうなんでしょうね。64年東京で金メダル、68年メキシコシティと72年ミュンヘンで銀メダル。そして76年モントリオールで再び金メダル。84年ロサンゼルスは銅メダルでした。
大林: ロサンゼルスの後、(中田)久美さん(元全日本セッター、現久光製薬監督)が「こんな色のメダルいらない……」って悔しがっていたのが、当時の日本女子バレーを象徴していると思います。アジアで勝って当然、オリンピックは出て当たり前、そして本番では勝たなきゃいけないっていう状況でしたから。

 

二宮: ではソウルから3大会、エースアタッカーを任されていた大林さんご自身、メダルを逃した責任を感じたこともありましたか。
大林: やはり自分の中では、私のせいで負けたという気持ちもありましたね。

 

二宮: アトランタに出場した後、97年に現役を引退されました。その後はキャスター、女優として活躍されていますが、指導者という進路は考えなかったんでしょうか。
大林: まったく、1ミリも考えませんでした(笑)。

 

二宮: それはまたどうして?
大林: 久美さんが(久光製薬の)監督になる前、解説者として一緒にいたんですけど、そのときにいつも言ってたんですよ。「もう、今の選手は意味が分からない」と。私たちは教えられなくても、自分で考えてやるところがあった。しかも久美さんも私もそれでできちゃってたんですよ。

 

二宮: 中田さんは天才と呼ばれた選手でしたよね。
大林: 天才の上に努力をするから、もう本当になんでもできたんです。そういうのを見ているから、自分がもし指導者になって素質のない選手を上に引っ張り上げる場合に、「なんでこの子はできないのかな」って思ってしまう。だから指導者にはなれないですね。

 

二宮: では指導者になった中田さんはすごいな、と。
大林: 現役時代から頭を切り換えた上で、さらにバレーの勉強もしていることを考えると、本当に頭が下がります。

 

二宮: 昔の仲間が監督をしていると、キャスターとして伝える側もプレッシャーに感じませんか。
大林: 久美さんには「私はマイクを通してバレーをちゃんと伝えるからね」といつも言ってます。私はバレーから離れて別の道を選びましたが、その部分ではバレーとちゃんと向き合っていきたいと思っています。

 

目指していたのはアイドル

 

二宮: 大林さんがバレーを始めたのは中学生のとき、やや遅めのスタートでしたね。
大林: それまではずーっと歌手やアイドルに憧れていたんですよ。ただ幼稚園のころから背が大きくて、それでイジメられました。引きこもりじゃないですけど、人と遊べない子になったりもしたんです。

 

二宮: じゃあ、その反動という面も?
大林: 小6で自分にアイドルは無理だと悟って、アニメのアタックNo.1を見ていた影響でバレーを始めました。

 

大林さん対談後編IMG_7384二宮: なつかしい。アニメでバレーが好きになったんですね。
大林: いやもう好きとか嫌いとかじゃなかった。バレーでオリンピックに行って、私をイジメていた人を見返そう。その一念だけで続けてきましたから。これをやらなきゃ私は生きていけない、それくらい強い思いがありました。

 

二宮: それがあったから、山田重雄監督(当時/日立、全日本)の厳しい指導にも耐えられたんでしょうね。
大林: そうかもしれません。

 

二宮: 日立の練習には中学生の頃から参加したんですよね?
大林: バレーを始めた当時、日立、そして全日本のセンターだった江上由美さんのファンになったんです。それで江上さん宛にせっせとファンレターを書いたんですけど返事が来ない。それで作戦を変更して、山田監督宛に出したんです。そうしたら「一度見にいらっしゃい」と電話がかかってきました。近所だったから自転車で日立の体育館に行って、その日、コートに立たせてもらったんです。

 

二宮: 当時は日立、イコール全日本の選手でした。
大林: はい。のちにロサンゼルスに出る人たちでした。そこに1人入れてもらって、久美さんのトスを初めて打ったんですよ。でも中学2年生でしたし、全然できませんでした。その後、山田先生が「まだ君には無理だけど、本当にオリンピックに行きたかったら明日からうちの練習に来なさい」と誘ってくださった。それで日立の2軍、たまに1軍の方に日替わりで参加するようになったんです。

 

二宮: 手紙を出した甲斐がありましたね。
大林: そうですね。江上さんに出し続けていたら、そのつながりはなかったかもしれないから、縁って不思議なものだと感じます。

 

二宮: 当時、左利きの大型アタッカーは貴重でした。

大林: はい。これはたまたまなんですけど、バレー選手として、ひとつの武器だったと思っています。

 

二宮: 世界的にも左利きのアタッカーは珍しいですよね。
大林: そうですね。今は長岡望悠選手(久光製薬)がいますが、日本で左利きのアタッカーは歴代でも私ぐらいでした。

 

二宮: やはり左利き、サウスポーは有利ですか。
大林: 有利です。ただ私のときは前例がなかったので、中学校でも全日本でも教えてくれる人が誰もいませんでした。「見よう見まね、助走とか逆にすればいいじゃん」と軽く言われましたけど、同じ動きをしてくれる人がいないと分からない。だから私は右の人の正面に立って、鏡のようにして助走や入り方などの動きを覚えました。

 

二宮: 続いて女優業のお話をうかがいます。舞台やドラマ、映画での自分の演技を後で振り返っていかがですか。
大林: 毎回、DVDなどを見ては「あー、ここはこうすればよかった」と反省の連続です。それを次の作品に活かしてはいるんですが、なかなか納得いく演技をするのは難しいですね。

 

二宮: あの蜷川幸雄さんの作品にも出演されているんですね。
大林: 蜷川さんの作品にはどうしても出たくて、2年くらいずっと蜷川さんの所に通ったんですよ。自分が出た作品のビデオをお渡しして、どんな役でもいいですからと伝えて、それで手紙もいっぱい書いて。

 

二宮: ここでも手紙ですか(笑)。
大林: それでやっと「仕方ねえなあ」ってノリで出させていただけたと思っています。

 

日立時代の密やかな楽しみ

 

大林さん対談後編IMG_7399二宮: 蜷川さんもバレーの山田監督に負けず劣らず、厳しい方ですよね。役者に向けて灰皿を投げたなんてエピソードもあります。何か飛んできましたか(笑)。
大林: いや、もうそういう時代ではなかったです。ただ罵声は浴びせられました。「バカ」だ「アホ」だ「才能なし」みたいな感じで。でもそれは「しっかりしろ!」の裏返しで、演技者はそう言われてナンボみたいなところもありますからね。

 

二宮: 蜷川さんにそう言われるのは、逆にすごいことですよね。認めてもらえたってことじゃないですか?
大林: 3作、出させていただきましたが、本当にありがたいことだったな、と今でも思っています。

 

二宮: 大林さんの頬もだいぶ赤くなってきました。ところでお酒を飲み始めたのはいつからですか。

大林: 引退してからです。まあ現役時代、日立のときはお酒、タバコはもちろん炭酸飲料、スイーツ関係も一切禁止でしたからね。

 

二宮: 女性にとって甘い物禁止はつらかったんじゃないですか。
大林: 大好きだった炭酸ジュースが飲めないのがつらかったですね。でも密やかな楽しみもあったんですよ。Vリーグで優勝した日や、苦しいときの決起集会ではコンビニで買ったショートケーキを内緒で食べたり、選手によってはちょっとお酒を飲んだりしていました。

 

二宮: 海外の選手はよく飲むでしょう?
大林: 95年、イタリアのセリエAに行きました。チームメイトと試合後に食事に行くと、みんな平気でワインを1、2杯飲んでるんですよ。向こうは炭酸ジュースがすごく甘いので、私もそのときにワインをちょっと飲みました。でも当時は、そんなに好きではなかったですね。

 

二宮: では本格的にお酒が好きになったのは引退してからですか。
大林: そうですね。キャスターの仕事も舞台の仕事も、結構打ち上げが多いんですよ。そこで1人だけソフトドリンクを頼むと、乾杯ドリンクが出てくる時間が揃わなくて微妙な空気になる……。それでお酒を飲むようになって、今では大好きになりました。

 

二宮: 毎日飲まれますか。
大林: 週に1日はお休みの日を作っています。

 

二宮: 休肝日というわけですね(笑)。
大林: やっぱり私も年齢を重ねてきているので、体のことを考えながらお酒といい付き合いをさせてもらっています。

 

二宮: では最後に、女優として大林さんの夢を教えてください。
大林: 夢は大河ドラマ出演ですね。

 

二宮: ということは時代物ですね。
大林: いろいろな方に会って相談するんですが、とりあえず「(身長が)デカいね」ってことで(苦笑)。設定が時代劇となると、当時はそんな大女はいないってことで、なかなか夢は実現しないんですよ。

 

二宮: それは気づかなかった……。
大林: そうなんですよ。ただ架空の人物でもいいじゃないか、とも思ってるんですが、なかなか……。私自身が女優としてもっと経験を積んで、いつかはその夢を叶えたいと思っています。

 

二宮: 今日は楽しいお酒でした。
大林: こちらこそ。そば焼酎の新しい飲み方「そばソーダ」を知りました。今度は仲間も交えてワイワイやりましょうね。

 

(おわり)

 

大林さん対談後編IMG_7411<大林素子(おおばやし・もとこ)プロフィール>
1967年6月15日、東京都生まれ。中学1年からバレーボールを始め、中学3年で東京都中学選抜に選出される。その後、高校バレーボール界の名門八王子実践高校に進学。86年日立入社。88年ソウル五輪、92年バルセロナ五輪に出場する。95年にイタリアセリエA・アンコーナに所属し、日本人初のプロ選手となった。帰国後、東洋紡オーキスに所属、96年アトランタ五輪出場後、97年に引退した。引退後はキャスター・女優として舞台、映画、ドラマなどに出演。蜷川幸雄作品の「ファウストの悲劇」「たいこどんどん」「盲導犬」にも出演。現在は日本スポーツマスターズ委員会シンボルメンバー、JOC環境アンバサダー、福島県・しゃくなげ大使、環境省チャレンジ25キャンペーン応援団、JVA(日本バレーボール協会)広報委員、観光庁「スポーツ観光マイスター」、 2016オリンピックデーラン・アンバサダーを務める。オムニバス映画「Tokyo Loss」が2017年に公開予定。

 


 今回、大林さんと楽しんだお酒は本格そば焼酎「雲海」。厳選されたそばと、宮崎最北・五ヶ瀬の豊かな自然が育んだ清冽な水で丁寧に造りあげた深い味わい、すっきりとした甘さと爽やかな香りが特徴の本格そば焼酎です。ソーダで割ることで華やかな甘い香りが際立ちます。

提供/雲海酒造株式会社

 

<対談協力>
砂々良
東京都新宿区西新宿6-16-12
TEL: 03-3342-5795
営業時間: 17時30分~24時(LO23時30分)
定休日: 日曜・祝日

 

 

大林さん対談プレゼント写真☆プレゼント☆

 大林さんの直筆サイン色紙を本格そば焼酎「雲海」(900ml、アルコール度数25度)とともに読者3名様にプレゼント致します。ご希望の方はこちらのメールフォームより、本文の最初に「大林素子さんのサイン希望」と明記の上、下記クイズの答え、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)を明記し、このコーナーへの感想や取り上げて欲しいゲストなどがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締切は9月8日(木)までです。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。

 

◎クイズ◎

今回、大林素子さんと楽しんだお酒の名前は?

 

お酒は20歳になってから。
お酒は楽しく適量を。
飲酒運転は絶対にやめましょう。
妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。

facebook icon twitter icon
Back to TOP TOP