第108回 順調だったセカンドキャリア…… ~松原良香Vol.16~

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 松原良香が静岡FCの監督を引き受けることになったのは、2004年シーズンが終わった後のことだった。

 

 松原によると、あるサッカー関係者に欺されて、それまで貯めていた金を失っていたという。そんな松原の窮状を見かねて動いたのが、静岡FCの創設者で、実質的なクラブのオーナーであった納谷宣雄だった。元日本代表、三浦知良の父である。

 

 納谷は相手と交渉し、被害に遭った金の一部が返金されることになった。その礼を言うためもあり、松原は納谷の事務所に顔を出したのだ。

 

 納谷は、静岡駅近くに寿司屋を経営しており、2階部分を事務所として使っていた。納谷との話が終わり、部屋を出ようとしたときのことだ。

 

まさかの監督打診

 

 納谷が突然、思いついたようにこう言った。

「おい、良香、お前、監督やるか」

 

 その瞬間、松原の頭の中で光が走ったような感覚があった。目の前が一瞬にして開けたような気がしたのだ。

 

 2004年シーズン、松原はかりゆしFCから静岡FCに移籍。JFL昇格を掛けて全国地域リーグ決勝大会に出場したが、敗退していた。

 

 松原はこう振り返る。

「もう一回海外(のクラブ)に行くことも考えていました。でも、子どもがいるのに、ほとんど一緒に生活したことがなかった。妻や子どもに対して申し訳ないという気持ちもあった」

 

 松原が現役に拘っていたのは、もう一度、日本代表の青いユニフォームを着たいという思いがあったからだ。

 

 74年生まれの松原は30歳になっていた。

「自分がプレーしていたのは地域リーグ。そこから本当に日本代表に選ばれるところまで這い上がっていけるのか、年齢的にも自分でも疑問を持つようになっていた」

 

 それまで松原は指導者をやりたいと考えたことはなかったという。

「納谷さんから、“監督をやるか”と言われた瞬間、海外に行くとか全部吹っ飛んだ。監督をやりたい。それが次の挑戦だと。そのとき、自分が何か必死で取り組める挑戦を探していたことに気がつきました」

 

 納谷の意向で登録上は選手兼任監督となっていたが、松原はもう試合に出る気がなかった。もはや現役に対する執着はなかった。 

 

 2005年シーズン、松原は妻の実家のあった千葉県稲毛海岸に住み、静岡まで通うことになった。

 

 自転車で最寄り駅まで行き、京葉線で東京駅へ。京葉線の東京駅は地下奥深くにあり、新幹線に乗るには地上まで登らなければならない。六時過ぎの東京駅発「ひかり」の始発は、背広姿のビジネスマンばかりだった。

 

 座席につくと、妻が早起きして作ってくれたおにぎり2個を食べ、ペットボトルに入ったルイボスティーで流し込んだ。ルイボスティーは浜松に住む父親が送ってくれたものだった。

 

 なるべく金を倹約しなければならなかったのだ。

「給料は14万円とかそんなものです。それなのに、新幹線の定期代が3ヶ月で39万幾らとかです。交通費は出してもらえなかったので、自腹。それでもいいと思っていましたから」

 

 静岡駅に着くと、納谷の事務所まで歩いた。駐車場で静岡FCの後援者が貸与してくれた車に乗り、ブラジル人コーチの家に迎えに行った。そして、車の中でその日の練習内容を打合せしながら、練習グラウンドに向かうのだ。静岡FCは決まった練習場はなかった。行き先はその日によって変わった。

 

 練習が終わると、再びブラジル人コーチを家まで送り、事務所で納谷に練習の報告を済ませてから東京行きの新幹線に乗る。東京に着くのはだいたい午後3時ぐらいだった。

「かみさんも仕事をしていましたし、子どもの面倒も彼女の実家でみてもらわないといけない。ぼくは千葉から通わざるをえなかった」

 

 そんな松原の毎日を見て、納谷と親しい人間たちが心配しはじめた。

「周りの人たちが、“(松原は)どうやって食っているんだ”という話になって、納谷さんに“こいつ、こんなに頑張っているんだから、なんとかしてやってくれ”と掛け合ってくれる人もいました。それである(静岡FCの)スポンサーの方が、交通費を出してくれることになったんです」

 

青天の霹靂

 

 また、松原は空いている時間を使って青山でサッカースクールを始めている。

 

 これは知り合いから息子にサッカーを教えてくれと頼まれたことがきっかけだった。

「教えた後、ありがとうございますって、お金を包んで渡されたんです。でもぼくは受け取らなかったんです。そういうつもりでやったんではなかったので。そして2回目をやったら、“松原さん、どうやったら教えてもらえますか?”と言われたんです。そこでぼくは、やるんだったら、人数を揃えてください、プライベートレッスンという形ならばお金を受け取りますと答えたんです」

 

 その知人は、周囲に声を掛けて、子どもたちを集めることになった。

 

 しかし、最初はフットサル場を借りることもできなかったという。そこで松原は、オリンピック代表の同僚だった前園真聖に一緒にフットサル場の事務所に来てくれと頼んだ。

「ゾノにはそこに立っているだけでいい、と。前園と一緒にサッカースクールを始めるということで、コートを借りることができたんです」

 

 五輪代表だったときの監督の西野朗、コーチだった山本昌邦たちから、トップチームで指導者をするならば、子どもを教える経験は必須だと言われたことも松原の頭には残っていた。

 

 松原の指導は好評で、生徒はどんどん増えていった。松原は、都心はサッカークラブが多いようでいて、丁寧に教えている人が少なかったのだと思ったという。

 

 生徒数が100人を超えて、場所を六本木に移すことになった。加えて、このサッカースクールで知り合った関係で、私立高校のサッカー部のマネージメントも頼まれた。

 

 静岡FCの監督は1シーズンで終えたが、現役引退後の人生は順調だった。

 

 しかし――。

 

 後に松原はこのほとんどを失うことになる。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。

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