第109回 流浪のストライカーが選んだ道 ~松原良香Vol.17~
松原良香が望月重良から電話を貰ったのは、2015年11月のことだった。
元日本代表の望月は松原より1つ年上にあたる。静岡市生まれで清水商業の望月に対して、松原は浜松市生まれで東海第一高校。同じチームに所属したことはないが、静岡県下では早くから選抜チームによる合同練習が行われていたため、2人は中学生から知り合いだった。
望月は現役引退後、2008年にSC相模原を立ち上げた。神奈川県社会人サッカーリーグ3部から始め、2013年にJFLに昇格。この年にJリーグへの入会が認められ、2014年からJ3に所属している。
待望のJ監督のオファー
2015年シーズン、出足こそ悪くなかったが、中盤から引き分け、負けが込んでいた。
松原はこう振り返る。
「(相模原は直近の試合で)4連敗していて、しかもノーゴール。チームは最悪の状態。だから監督をやってくれないかと」
監督の誘いである――。
松原は2005年シーズン、1年だけ静岡FCの監督を務めていた。その後、2012年にJFA公認S級コーチのライセンスを取得している。
いずれはJリーグの監督をやりたいという思いはあった。しかし、自らが立ち上げたサッカースクールの運営、中高一貫校のサッカー部のゼネラルマネージャー職で忙殺される毎日が続いていた。
状況が変わったのは、2014年12月のことだ。
神宮外苑で始めたサッカースクールは、会員数が増えたため、六本木に移転となっていた。ところが、このサッカースクールは松原の手から離れることになった。同じ時期、ちょっとしたことで足を引っ張られ、一貫校のサッカー部のGM職も辞任することになった。どちらも松原は人を信じすぎていたのだと唇を噛んだ。
「サッカースクールはもちろん、その中学・高校のサッカー部を何もなかったゼロの状態から強くしたのは“自分だ”という思いがあった。自分の力をどこかで証明したかった」
六本木で教えることはなくなったものの、浦安のサッカースクール、メディア出演の仕事などがあった。それをやりくりしていても白黒がはっきりとつく監督をやりたいと強く思ったのだ。
松原は監督就任を決めてすぐ、練習を見に行き、選手たちの前で挨拶することになった。
「(練習場の)ノジマテラスのグラウンドで自己紹介しました。自分と望月代表の付き合いだったり、自分はこのクラブをどうしたいかという内容でした。ぼくが任されたのは、このチームを来シーズンに繋げること。すなわち残り試合を全て勝つことだと」
その日は雨が降っていた。ずぶ濡れになった選手たちの表情には、負けが続いているチーム特有の暗さがあった。
特に元日本代表の高原直泰の険しい顔が目についた。
高原が高校を卒業し、ジュビロ磐田に入ったのは98年のことだった。同じポジションの松原は高原に押し出される形でクロアチアへ移籍することになった。
「タカ(高原)のことは昔から知っているじゃないですか? 彼はキャプテンとしてチームをなんとかしなければならないという思いがあった。ただ、ぼくや望月代表に気を使っているのも感じた。チームは停滞しているので、他の選手にも遠慮する部分もあった」
シーズン終了が近づき、今季限りで退団が決まっている選手のモチベーションが落ちていた。加えて勝てない、ゴールが奪えないことで雰囲気は最悪だった。
J1の選手とJ3の差は選手の技術、体力はもちろんだが、精神面のコントロールもある。
下部リーグの選手の多くはフルタイムのプロ選手ではない。練習以外の時間をアルバイトに充てて生活費を稼がねばならない。そのため、サッカーがおろそかになっている事も多々あった。
松原は早くから各年代の代表に選ばれて、将来を嘱望されていた選手だったが、のちにかりゆしFC、静岡FCという地域リーグでもプレーしている。そのため、こうした選手の気持ちを理解することができた。
断った契約更新のオファー
監督就任最初の試合は、11月8日のFC琉球戦だった。試合は琉球の本拠地、沖縄の沖縄県立陸上競技場で行われた。
前夜、松原は本田圭佑の所属するACミランの試合解説の仕事が入っていた。朝までスタジオで試合を見てから、タクシーで羽田空港まで移動、那覇行きの飛行機に乗った。
11月、関東はすでに肌寒くなっていたが、沖縄は30度を超える陽気だった。
松原が嬉しかったのは、観客席から自分に対して温かい声援が聞こえたことだった。琉球のサポーターの中にかつてのかりゆしFCを応援した人間が混じっていたのだろう。
試合は前半13分から相模原が先制し、激しい打ち合いになった。試合が終わると、6対4の勝利――。
「4試合の間、1点も獲っていなかったのに6得点。両チームで10点も入ったのはJ3リーグ記録だったらしいです。自分らしいデビュー戦だなと思いました」
松原は選手の特性を見ながら多少ポジションの組み合わせを変更したが、システム自体には手をつけなかった。時間がない中で、選手に多くを求めると混乱すると考えたからだ。これはかりゆしFCや静岡FCで学んだことだった。
「まず変えたのはメンタル。極端なことを言うと、『お前らの人生の目的は何だ、なんためにここにいるんだ』と話をしましたね。『俺が来たのは、全部勝つためなんだ』と何度も言ったことを覚えています」
そして守備である。守備と攻撃は表裏一体であることを徹底させた。
「監督という仕事が面白いのは、その人間がそれまでやってきた全ての経験が試合に現れること。全身全霊、全ての自分の能力をぶつけなければならない。それで勝ったときは本当に快感でしたね」
続く、11月15日、相模原は本拠地のギオンスタジアムで長野パルセイロと対戦した。J2への昇格の可能性を残していたパルセイロに2対0で勝利。
最終戦のブラウブリッツ秋田戦は、選手が怪我等で欠けスタメンを組むのに苦労したこともあり、2対2の引き分け。アウェーで2点先制された後、同点に追いついたのだ。
松原の監督就任以降の成績は2勝1分。4連敗していたチームを引き受けたことを考えれば、上出来だった。クラブ側からは契約更新の打診があった。しかし、松原は断っている。今年4月から筑波大学大学院に合格し、人間総合科学研究科スポーツ健康システムマネジメント専攻に通うことになっていたからだ。
現在、松原は火曜日から金曜日の夜、茗荷谷にある筑波大学に通っている。松原は子どもの頃から、教室に坐って授業を受けるのが苦手だった。自分がこれまで勉強してこなかったことをひしひしと後悔しながら、時間を作って人に話を聞き、本を読む日々である。
大学院に行って良かったのは、これまで見過ごしていた様々なことに気がついたことだという。自分はこれからもサッカーと関わっていくことは間違いない。それをどう社会と結びつけるか、松原は今、そんなことを考えている。
(この項終わり)
■田崎健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。