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(写真:80‐84歳の部で優勝した稲田氏の表彰式)

 10月はトライアスリートにとって、特別な月。

 なにしろ、トライアスロンの頂点を決める「アイアンマン ワ-ルドチャンピオンシップ コナ大会」が開催されるからである。この大会が世界中のアスリートの憧れであり、翌年のトライアスロン界のマーケットを占う意味で重要な鍵になっている。つまりこここそが、業界の中心であり、オリンピックでさえも敵わない。そう、まるでテニスのウィンブルドン、ゴルフのマスターズ、サイクルスポーツのツール・ド・フランス的存在である。

 

 そのコナに憧れて1年を過ごすトライアスリートは多いが、中でも日本の稲田弘は世界中から注目を集めている。現在、ここで入賞を狙えるようなプロ・アスリートがいない日本において、大会側からインタビュー依頼が来たりするのは、国内では間違いなく彼だけだろう。今年もあちこちで話題になっていた彼は、83歳と11カ月で今年のレースを迎えた。

 

 その年齢でこの厳しいレースを完走できるのか? 同じ日本人の僕にも、各国のメディアや選手からそういったことを聞かれることが多かった。

 

 83歳といえば長寿国の日本においても平均寿命以上である。つまり生きているだけでも素晴らしい。稲田は1人で海外へ遠征し、飄々と現地で生活をこなす。ホテル暮らしも外食生活もいとわない。選手である前にそれだけでも驚きの83歳だが、彼はそのうえ、海で3.8km泳ぎ、180km自転車に乗り、42.2kmを約17時間で走るアイアンマンだ。それぞれ単一種目であっても大変な距離なのに、継続してこなす。特に、このコナのコースは風、波、太陽が厳しい条件で、若いトライアスリートでも苦しませられる。そのスタートラインに立つ“超老人!”。世界中が注目するのも当然だろう。

 

 しかし、彼のトライアスロン歴は意外に長くない。64歳から水泳をはじめ、最初のレースは70歳。そこで完走できた喜びがこの世界にどっぷりとハマるきっけになった。それから10年、79歳の時にこの世界選手権で完走し、いきなりエイジチャンピオンに。そこから世界は注目した。しかし、その後3年は完走できず、「やはり80歳を超えるとこのレースは厳しいのでは」とささやかれてもいた。いや、それは至極当然の意見だったのかもしれない。

 

 前人未到の挑戦は続く

 

「生活のすべてをアイアンマンに注ぎ込んでいます」とは稲田の言葉。

 老いは否応なしに感じさせられる。それと戦うには練習を工夫し、生活を工夫し、努力を重ねるしかない。練習のときはもちろん、食べるとき、寝るときでさえもコナを考えることがあるという。3年間の悔しさを忘れることはないというのだ。

 

 10月8日に行われた今年のレース2日前、稲田のコーチから嫌な連絡が入った。「足を痛めたようで……」。テープで固めた足を隠すように、長ズボンでオープニングセレモニーの舞台に立っている。僕はその姿を見ながら神様の意地悪に悪態をついてしまった。

 

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(写真:フィニッシュに吸い込まれていく稲田氏)

 レース当日、スタートから13時間を経過したころ、ランコースの16km地点を軽快に走っていく彼の姿が。“これはいけるかもしれない”と期待しながらフィニッシュ地点で待つ。アイアンマンの制限時間直前のフィニッシュエリアはお祭り騒ぎ。大勢の人が闇夜から走り抜けてくるアスリートを熱狂的な声援で迎える。このレースにおいては、「早く帰ってきたものだけが勝者ではない。フィニッシュできたものすべてが勝者である」というのがセオリーだ。背中が曲がっている人、両手を失っているハンディキャップのある人、歩くことさえままならない人。各々がそれぞれの戦いに打ち克ち、ここに戻ってくる。疲れ切っていてもその表情には充実感と喜びがにじみでる。

 

 制限時間の16時間50分まであと5分を切ったころ。僕たちの前で年配のアスリートが倒れた。ラスト50m、なんとか立とうとしているのを応援していると、会場がひと際大きく沸く。そう、稲田が戻ってきたのだ。前だけを見つめ淡々と走る姿は先ほどと変わらない。昨年は数秒に泣いた彼は、その何倍ものアドバンテージをもって帰ってきた。そして、その姿はフィニッシュの光の中へ消えていった。

 

「そりゃ苦しかったですよ。でも“なんとしても今年は”という気持ちだけで頑張ったんです」。翌日、彼に会うといつもの稲田に戻っていた。まだフィニッシュして24時間もたっていないのに熱く語る。「これで目標達成ですね」と言葉をかけると、「これから来年に向けてのスタートです」とこれも変わらぬスタンス。もし来年も完走できると、85ー89歳以下のカテゴリーで世界初の完走者(対象はその年の満年齢のため)になる。僕たちが喜んでいる中ですでにその先を見据えている稲田。これこそが「超老人」の源なのだろう。

 

「体が老いるのではなく気持ちが老いる」ということを、彼を見ているとひしひしと感じる。人間の可能性は素晴らしい。さて僕たちはその可能性をどれだけ生かしているのか……。
 世界中が注目する「超老人」の前人未踏の挑戦はまだまだ続く。

 

白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール

 スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦していた。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。08年11月、トライアスロンを国内に普及、発展させていくための会社「株式会社アスロニア」を設立、代表取締役を務める。著本に『仕事ができる人はなぜトライアスロンに挑むのか!?』(マガジンハウス)、石田淳氏との共著『挫けない力 逆境に負けないセルフマネジメント術』(清流出版)などがある。

>>白戸太朗オフィシャルサイト>>株式会社アスロニア ホームページ
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