2012年、ロンドンパラリンピックに出場した高桑早生選手。本格的に陸上競技をはじめて5年で、100メートル、200メートルの2種目で入賞を果たした。昨年の7月には100メートルで13秒69をマークし、日本記録を更新。同年10月、日本選手団の旗手をつとめたインチョンアジアパラ競技大会では100メートルで銅メダルを獲得した。パラ陸上界期待の若きスプリンターに、1年後に迫ったリオデジャネイロパランピック、その先の東京パラリンピックへの思いを訊いた。

 

伊藤: 高桑早生選手は、この春に大学を卒業し、エイベックス・グループ・ホールディングスに入社されました。新生活は、いかがですか?

高桑: 今は毎日が精一杯で、必死にやっているという感じですね。

 

伊藤: 陸上をやっている姿も素敵ですけど、スーツ姿もとても似合っていますよ。

二宮: 仕事をしつつ、当然、競技の練習もやらないといけない。やることが多い分、充実した日々を送られているんじゃないでしょうか?

高桑: はい。そのような環境下で、頭と身体のバランスがうまくとれていると思います。練習にもすごく集中できているので、今は本当に良い状態です。

 

伊藤: 現在、練習環境は十分に整っているというわけですね。

高桑: そうですね。学生時代と変わらず、大学の競技場を使わせてもらっています。後輩たちと一緒に練習をしていますね。

 

 義足ランナーとの出会い

 

二宮: 義足になる前からスポーツは得意で、走るのは速かったとお伺いしました。

高桑: もともと、身体を動かすのは好きでした。ただ、走るといっても運動会のリレーの選手に必ずなっている程度のものだったんですよ。とにかく運動することが大好きで、ひたすら動き回っている子でした。

 

二宮: それが小学6年時、骨肉腫を患った。3度手術した後、中学1年時に左足ヒザ下の切断をすることになったとお聞きしました。相当なショックだったでしょうね。

高桑: そうですね。ただ私の場合、ちょっと発見が遅かったので、あまり深いことを考えている余裕もなかったんです。当時は子どもだったので、何もわかっていなかったというのもあるんですが、今はいろいろな経験をしつつ、"無事にここまでこれたな"と思っています。

 

二宮: なるほど。それで障がい者スポーツに取り組もうと思ったきっかけは?

高桑: 私の義足を作っていた義肢装具士の高橋将太さんが、私と同じ病気で足を切断していたパラアスリートだったんです。高橋さんが「ヘルスエンジェルス」という東京にある切断者のスポーツクラブを紹介してくれて、ある大会の見学に誘われたんです。そこで初めて義足の人が走っているところを見て、とても感動したんです。

 

伊藤: 初めて競技を見て、すぐに魅了されたわけですね。

高桑: はい。それと義足ランナー・佐藤真海さんの影響もあります。真海さんも、高橋さんや私と同じように骨肉腫を患い、足の切断を経験していたんです。それで母親が真海さんの書かれた『ラッキーガール』を借りてきてくれたんです。

 

二宮: 佐藤選手は2004年アテネ大会から3大会連続でパラリンピックに出場している障がい者陸上競技のトップ選手です。やはり、その言葉に重みがありましたか?

高桑: もちろん文章も感銘を受けたのですが、最初の方のページにたくさん写真が載っていたんです。それが私には衝撃的でした。"こんな世界があるんだ"と。その時まで私は自分しか、足を切断している女の子を知らなかった。早い段階で真海さんの本を読み、"こういう人もいるんだ"と知ることができたので、"私も頑張ってみよう"という大きなモチベーションになりました......。

 

伊藤: ヘルスエンジェルスでは佐藤真海さんと、一緒に練習はされましたか?

高桑: 残念ながら私が入った頃には、真海さんは別のところで活躍されていたんです。それでも最初は"佐藤真海さんもここでやっていたんだ"と嬉しく思いながら、クラブの練習に参加していましたね。

 

(第2回につづく)

 

高桑早生(たかくわ・さき)プロフィール>

1992年5月26日、埼玉県生まれ。小学6年の冬に骨肉腫を発症し、中学1年の6月に左足ヒザ下を切断した。高校から陸上部に入り、2010年の広州アジアパラ競技大会では100メートルで銀メダル、走り幅跳びで5位入賞。高校卒業後の11年からは慶應義塾大学体育会競走部に所属する。12年ロンドンパラリンピックでは100メートル、200メートルともに7位入賞を果たす。14年7月、100メートルで日本新記録となる13秒69をマークすると、10月のインチョンアジアパラ競技大会では100メートルで銅メダルを獲得した。今春からエイベックス・グループ・ホールディングス(株)に入社。


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