伊藤: 1回目の東京オリンピック・パラリンピックは1964年に開催されました。東京都出身の宮澤さんは、どんな思い出がありますか?

宮澤: 当時、僕は15歳。中学3年生だったのですが、僕が住んでいた町田市にも聖火ランナーが走るということで町中が盛り上がったことを今でもよく覚えています。実は僕も聖火ランナーを務めたんです。

 

二宮: それはすごい。世界でも自国開催の五輪の聖火ランナーを務めるなんて、なかなかできませんよ。

宮澤: 当時、陸上部に入っていまして、町田市の中学校から何人か選ばれたのですが、その一人に入ったんです。

 

伊藤: さぞかし優秀なランナーだったんでしょうね。

宮澤: 今ではとても走れませんが(笑)、当時は速かったんですよ。なんといっても、"逃げ足"が速かった(笑)。

 

二宮: アハハハハ。でも、学校の代表として聖火ランナーを務めたんですから、憧れの的だったでしょうね。

宮澤: いえいえ(笑)。ただ、やっぱりオリンピック効果は絶大でしたね。僕ら3年生が卒業した翌年、僕たちの中学校に入ってきた1年生がこぞって運動部に入ったんです。

 

 "記録"よりも"記憶"の大会に

 

二宮: 64年の東京オリンピックでは、"東洋の魔女"こと全日本女子バレボールが金メダル、男子も銅メダルを獲得し、バレーボールは人気を博しました。そして男子マラソンでは円谷幸吉さんが、陸上では唯一のメダル(銅)を獲得しました。

伊藤: 体操や柔道、レスリングでもメダリストが多く出ましたよね。その東京五輪を見て、「自分もやりたい」と思った子どもたちが、それほど多かったと。顧問の先生は、喜んだでしょうね。

宮澤: ところが、喜んだのと同時に困った事態が起きたんです。僕らは"団塊の世代"ですから、子どもの人数が非常に多かった。だから、一度に新入部員が増えたもんだから、それまで使っていたグラウンドだけでは賄いきれなくなってしまったんです。仕方ないから、学校が隣近所の空き地を借りてきて、そこでやったんです。

 

二宮: 宮澤さんが所属していた陸上部はどれくらい人数が増えたんですか?

宮澤: いつも3学年で30~40人くらいだったんです。僕らの学年は10人ちょっといましたから、20人くらい残っていたんです。ところが、翌年には60~70人くらいの大所帯になっていました。卒業しても、よく中学校に遊びに行っていたのですが、1年経っても2年経っても、ずっとその人数を維持していましたからね。

 

伊藤: まさにオリンピック効果ですね。

宮澤: そうなんです。そうやって子どもたちが主体的にスポーツをやるようになって、何が一番良かったかというと、友だちが増えたことだと思うんです。団体競技はもちろん、たとえ個人競技であっても、練習をひとりでやることなんてできませんからね。必ず誰かと関わるようになる。そして全員がレギュラーになれるわけではありませんから、補欠と選手が支え合ったり、レギュラーの選手が「周りに支えられている」と感謝するようになる。まさにスポーツは「心技体」全てを育んでくれるものだと、その時に感じましたね。

 

二宮: 64年は"成長"を示す大会であり、今度の20年は"成熟"した日本を示す大会と、それぞれ開催のコンセプトは異なります。しかし、スポーツによって国民が得られる幸福感は、いつの時代も変わりません。

宮澤: おっしゃる通りだと思います。メダルの数も大事かもしれませんが、記録以上に、子どもたちに記憶に残るオリンピック・パラリンピックになるといいなと思います。

(おわり)

 

宮澤保夫(みやざわ・やすお)プロフィール>
1949年生まれ。1972年に生徒2人の学習塾を開いて以来、教育界に革命を起こし、子ども達のために必要な学びの場を作り続けている。1985年に日本初の企業外にある技能連携校「宮澤学園」(現 星槎学園)を設立。1999年以降、不登校や発達の問題を抱える子どもたちも受け入れられる日本初の学習センター方式を採用し、登校日数を自分の状況で決められる登校型広域通信制高校や、特区を用いた教育課程を弾力的に運用できる中学校や高校を開校。2004年には通信制大学「星槎大学」、2013年には大学院を開設するなど、保育園・幼稚園、中学校から大学院を有する星槎グループを創設。2010年には、困難な環境にある国内外の子どもたちを、主に教育と医療の分野でサポートする「世界こども財団」を設立。


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