第110回 少年のようにサッカーを愛する男 ~安永聡太郎Vol.1~
ふとしたとき、記憶の奥底からゆらゆらと顔が浮かんでくるような知人が誰にでもいるはずだ。決して親しくはない。しかし、何かが引っかかり、気になる人間――。
安永聡太郞はぼくにとってそんな男だった。
ノンフィクションの仕事をやっていると、多くの人間と知り合いになる。1時間程度、話を聞くだけで終わることもあれば、取材をきっかけに長い付き合いとなることもある。安永とは1日一緒に過ごし、取材、食事、そして練習を見に行っただけだった。他の取材と少し違ったとすれば、その場所がイベリア半島の小さな港町だったことだ。
2002年9月、ぼくはスペイン、ガリシア州フェロールで安永と会うことになった。
ガリシアの歴史は紀元前6世紀にケルト人により始まっている。カストロと呼ばれる要塞化した集落が点在し、部族、氏族単位の共同体が形成されていたという。現在に至るまで、スペインで最もケルト的要素を残している地域である。
また、大西洋に面しているため、他の大陸との交流も盛んだった。18世紀末から多くのガリシア人がアメリカ大陸へ移民している。先日亡くなったキューバの最高指導者だったフィデル・カストロはガリシア人の末裔である。
フェロールは、巡礼地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラから約100キロの場所にある。中心地は白っぽい建物が多く、訪れる人に品の良い老婦人のような印象を与えた。ただ、物好きな観光客が、この地に生まれたフランコ将軍の像に多少興味を示すことを除けば、特徴がない街だ。
居場所を求めて本場スペインへ
安永とは彼の住んでいるアパートの1階にあるバールで待ち合わせしていた。約束より少し遅れて、今起きたばかりですとわざわざ書いたかのような顔の安永が現れた。
「部屋にあがりますか?」
彼の部屋はがらんとして何もなかった。家具は元々ついていたものだけなんですよと、安永は言い訳するような口調で言った。
作り付けの棚には身の回りの生活用品が並べられており、リビングのテーブルの上にスペイン語の辞書とノートが広げられていた。いかにも仮住まいといった風情だった。
安永は2002年シーズンからスペインリーグ2部のラシン・デ・フェロールに加入していた。
フェロールは1919年に設立されている。同じガリシアのデポルティーボ・ラコルーニャやセルタ・デ・ビーゴと違い1部リーグの経験はない。2部と3部を行き来する典型的な地方クラブである。
安永がこのクラブにやってきたのは、所属していたJリーグ横浜F・マリノスの監督、セバスチャン・ラザロニと衝突したからだった。
「ぼくとしたら監督と揉めたとか、そういうつもりはなかったんですけれど、信頼を失っていました。紅白戦にも参加させてもらえない時期があった。紅白戦などで出られれば、信頼を取り戻すチャンスもあるじゃないですか? そういう場を与えられなくなっちゃった。だったら選手としてプレーできる可能性のあるところでやりたいという話を6月頃からフロントの人にしていたんです」
ラザロニからはっきりと嫌われていると自覚したのは、2002年のワールドカップ開催中のことだったという。
「その頃、人がいないから紅白戦に出られていたんですよ。自分でも動けていると思っていたし、周りにもそう評価されていた。しかし、試合になるとベンチにさえ入れて貰えない。スタメンはないにしてもサブはあるだろうと思っていた試合で19歳ぐらいの若い選手を連れて行って、いきなり使ったんですよ。ああ、(自分が起用されることは)もうないなと思った。フロントもこのまま日本にいさせても良くないと判断したんでしょう」
8月あたま、ファーストステージ終了の2日後、安永は日本を出てスペインに向かっている。行き先がスペインだと聞いたのはその1週間ほど前だったという。
「フェロールだとはっきりと決まったのは、2、3日前。それで慌てて支度して飛行機に乗ったんです」
フェロールに着いてみると、安永は自分に対する扱いが冷ややかなことに気がついた。待ち構えていた地元紙の記者から、「すでにフェロールの外国人枠3つは埋まっている、通用する自信はあるのか」と詰問されたのだ。
初めてではなかった監督との衝突
安永はフェロールから請われて来たのではなかった。テストを受けて、良ければ移籍するという話だった。
テストは4日間、2試合の練習試合――。
初日の練習に参加しながら、“このクラブならば自分は合格するだろう”と安永は確信していたという。
「チームに同じようなタイプの選手がいなかった。(フォワードのうち)2人は躯が大きくて、中でも1人は(前線で躯を張る)それ命みたいな選手。フェロールはボールを回せるようなチームではなかった。4-4-2(システム)だったんですが、中盤の中央の2人は、こぼれ球を拾うのが得意だけれど、ボールをさばけない。パスを繫ぐことができないと思っているのか、戦術としてやっているのかは分からなかったんですが、前線のでかいのにボールを当てて、それを拾いましょうというサッカーでした」
安永はポストプレーヤーの落としたボールを狙って、前に走り込むプレーを心がけることにした。そして安永は契約を勝ち取ったという――。
ぼくは安永と初対面だった。それにも関わらず、彼はフェロールの選手たちの特徴、システムの問題点を、身振り手振り、文字通り堰を切ったように話し始めた。
多少ぶっきらぼうなところはあるが、彼がまっすぐにサッカーを愛していることは伝わった。そんな彼がなぜラザロニ監督から干されたのか、理解できなかった。
そしてもっと不可思議だったのは、監督とぶつかってチームを追われたのが、初めてではなかったことだ――。
(つづく)
■田崎健太(たざき・けんた)