安永聡太郞の人生に大きな影響を与えることになる、スペインサッカーとの遭遇は衝撃だった――。

 

 1995年4月、カタールで20歳以下の選手によるワールドユースが行われた。自国開催の79年以来2度目の出場権を獲得した日本代表は、スペイン、チリ、ブルンジと共にグループBに組み分けされた。初戦はチリを相手に2対2の引分け。そして2戦目にスペインと対戦することになった。

 

 この試合で安永は9番をつけて先発している。他の先発メンバーは、中田英寿、奥大介、松田直樹。対戦相手のスペイン代表の7番をつけていたのがレアル・マドリーのラウル・ゴンザレス。控えにフェルナンド・モリエンテスなどが坐っていた。

 

 試合は日本が1対2で敗れている。スコア上は1点差ではあるが、ピッチにいた安永はそれ以上の実力差を感じていたという。

 

「すげー奴らがいた」

 安永は、当時を思い出したのか、身をのけぞらせた。

 

「サッカーの質が違ったんですよ。あのとき(準々決勝で)ブラジルともやったんですけれど、そこそこできた(1対2の敗戦)。五分五分は言い過ぎだけれど、6:4ぐらい。それなりに手応えも感じたんだけれど、スペインのときは(サッカーの質が)違うねーと。7:3、いや、8:2ぐらいだった。滅茶苦茶ボールの回しが上手かったんですよ。本当にサッカーを知っているねという感じ。すごいショックだった。それで、スペインに行ってみたいと思った」

 

 安永は清水商業を卒業し、95年4月から横浜マリノスに加入した。契約の際、〈イタリア留学〉という条件をつけていたのだ。

 

「(ワールドユースの)あのゲームの後、日本に帰ってチームに行って、速攻、“俺、スペイン行きます”って。留学先をスペインに替えてください、もうイタリアじゃないって」

 

 但し、留学は先延ばしされることになった。安永はユースの1つ上のカテゴリー、オリンピック代表に選出されたのだ。

 

 ワールドユースから日本に戻った95年シーズン、安永にとってのJリーグ初年度は28試合出場1得点という成績だった。ただ、そのほとんどは途中出場である。

 

 安永にとってはほろ苦いシーズンだったという。

「そもそもマリノスに点取り屋として入ったのに、ラモン・ディアスとラモン・メディナベージョがいて、争いを諦めた自分がいた」

 

点取り屋から衛星役へ……

 

 世界的なフォワードだったラモン・ディアスはもちろん、メディナベージョも直近の94年ワールドカップアメリカ大会のアルゼンチン代表に選ばれていた。

「ラモンの左足を見たら、すげーうめーと思っちゃう。やばいもの。(足の)振りは速いし、狙ったコースにふわふわっと(ボールが正確に)行くし。スペースがないと思ったら、ボールを浮かせて自分でコースを作る。また、メンチョ(メディナベージョの愛称)は体が強いし、ドッカン(と強いシュート)がある。はっきり言うとぼくはサブ争いですよね。でもサブにも神(野卓哉)さん、三浦文さんがいた」

 

 神さんこと神野卓哉、そして三浦文丈の2人も日本代表に選ばれた経験があった。

「ぼくは試合に出たかった。ラモンとメンチョには敵わない。じゃあ、2人の周りを走る役で頑張ろうと、そう安易に考えた。2人と勝負して1年棒に振ってもいいという考えになれなかった。点取り屋として尖らなければならなかったのに、そこを一切磨かず、他をちょこっとできる器用な人間になることを考えた」

 

 世界的な名手である、ラモン・ディアスに食らいついて彼の良さを学ぶべきだったと安永は後悔している。

 

 ある日の紅白戦のことだった――。

 

 安永はラモン・ディアスと同じチームでツートップを組むことになった。

 

 安永が前線でパスを受けつつ、小村徳男に体をぶつけた。小村は日本代表の頑丈なディフェンダーである。彼の強い当たりに安永はボールを奪われてしまった。

 

「するとラモンがぱっと来て、“お前はタイミングが悪い”という風なことを言われた。そして、“ポジションを替わるから見てろ”と。そのときはゲーム中だったから、身振り手振りですよ。ぼくが井原(正巳)さん側、ラモンがオム(小村)さん側に移動した。そして、わざとぼくと同じ状況でボールを受けたんです」

 

 ラモン・ディアスは自分の前に出ようする小村に瞬間的に身体を当てた。そしてさっと引くと、小村が寄せづらい場所でパスを受けた。そしてボールを左足のアウトサイドでボールを停めると、味方にパスをした。鮮やかなポストプレーだった。

「その後、俺の方をみて、“な、分かるだろ?”みたいな感じで」

 

 安永は曖昧に頷いたが、小柄で細身のラモン・ディアスがどうして当たり負けしなかったのか、そのときは分からなかった。

 

「たぶん体をぶつけるタイミング。間違いなく、裏を狙う振りをして(小村を牽制して)いるんですよ。あとファーストタッチが無茶苦茶柔らかい。オムさんからすれば、力を入れづらい斜めの位置でボールを受けている。その場所だと身体を寄せると入れ替わる可能性があるので、ディフェンダーは行けない。絶妙な場所とタイミング。出てこようとしたオムさんをぴたっと止めて、来たボールを受け止めながら、ふわっとターンして隣にいた人に出す。その一連の美しさの絵が頭の中に残っている」

 

 ラモン・ディアスに限らず、南米出身のフォワードはボールを受けるタイミング、体の使い方が上手い。

 

「(小柄なセルヒオ・)アグエロがプレミアリーグで、でっかいディフェンダーを相手にごりごりボールをキープするじゃない? あんなの日本人の同じサイズの奴がやったら、簡単に潰される」

 

 ラモン・ディアスは同じフォワードの安永に対して期待するものがあったのかもしれない。しかし、入ったばかりの安永は遠慮があった。そのうち、ラモン・ディアスは、監督のホルヘ・ソラリとそりが合わず、95年シーズン途中で退団してしまった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)など。最新刊は『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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