Jリーグというプロ化によって、日本のサッカー選手は逞しくなり、世界に名乗りを上げられるようになった――。

 

 いわゆる“ドーハの悲劇”で94年ワールドカップアメリカ大会の出場権は逃したものの、95年ワールドユースと翌96年のアトランタ五輪という世界の舞台を踏んでいる。この経験が日本のサッカーを大きく変えることになったのは周知の通りである。

 

 安永聡太郞はその双方に関係がある――。

 

 アトランタ五輪日本代表が始動したのは、94年1月のことだ。

 

 中心となったのは、93年ワールドユースの出場を目指した日本ユース代表だった。この代表はアジア予選で3位となり、出場権を逃している。西野朗監督、山本昌邦コーチは、選手を入れ替え、チームを形づくっていった。

 

 フォワードの中心は、小倉隆史、城彰二、松原良香の3人だった。

 

 ところが――。

 

 95年5月、アジア一次予選第1ラウンドがタイで行われている。初戦のタイ代表との試合で、小倉は後方からのタックルを受けて怪我を負った。右膝内側側副靱帯損傷、全治3週間と診断された。

 

 急遽、小倉に代わるフォワードが必要となった。直前のワールドユースで日本ユース代表はベスト8進出を果たしていた。当時の日本の若手選手の中で世界基準のサッカーに触れていたのは彼らだけだった。そこで9番をつけていた安永に白羽の矢が立ったのは当然のことだったろう。

 

 安永はワールドユースのチームメイトであった中田英寿や松田直樹を差し置いて、最初に五輪代表に呼ばれたのだ。

 

 安永の五輪代表デビューは鮮烈だった。

 

 6月11日、名古屋で行われた一次予選第2ラウンド――。台湾代表戦の後半開始と同時に、安永は交代でピッチに入った。1分、前園真聖のフリーキックに安永は飛び込み、得点を決めたのだ。このシュートは安永のファーストタッチだった。ただし、彼は後半40分にレッドカードを貰い退場処分となっている。肝心なところで不完全燃焼に終わってしまうという、その後の人生を暗示しているかのようだった。

 

 彼のストライカーとしての才能は間違いなかった。しかし、小倉の代役として確固たる信頼を得るまでには至らなかった。

 

遊びを覚えてしまった……

 

 理由ははっきりしていた。

 

 年が明けた96年1月末からマレーシア合宿が行われた。この時期は、Jリーグのシーズンとシーズンの合間に当たる。選手にとっては体を休める期間でもある。ただ、五輪代表選手は別だ。3月にアジア二次予選が控えていたのだ。

 

 きびきびと走り回る選手の中で、安永の動きは鈍かった。彼はプロ入りして初めての休暇を満喫して、練習を怠っていたのだ。

 

 当時について安永はこう振り返る。

「ぼくがプロに入って失敗したのは、遊びを覚えたこと。遊びが第一になった。高校の時にはお金がないし、遊びたくても遊べない。サッカーに本当に時間を費やさなくてはならない。そうやってサッカーに没頭して頭角を現した奴がプロになるじゃないですか。で、プロになって、今度はそこでも真面目にやる奴が上に行く。ぼくはそうじゃなかった」

 

 その意味で首都圏にある横浜マリノスは誘惑の多いクラブだったといえる。

「ぼくは高校を出て1年ぐらい、ベテランよりも遅くグラウンドに行って、一番に帰っていた。また悪いことに練習は(午後)3時半からだったんですよ。練習が終わってからでも渋谷に着くのが7時、8時ぐらい。家に帰るのは明け方でも昼まで眠れるでしょ。起きて昼飯を食ってからでもOKだった。それで(練習に)行けちゃうんですよ」

 

 安永は1年目となる95年シーズン28試合に出場して1得点。このシーズン、横浜マリノスは初優勝を成し遂げているが、フォワードとしては物足りない結果である。

 

「ベンチには入っていたし、試合にちょこちょこ出て、そこそこできていた。そこそこというと語弊がある。結果は残っていなかったから。それでもある程度稼げる。独り身だから背負っているものもない。ちょろっと試合に出て、普通のサラリーマンでは考えられないような金額貰って、いい車乗って、色んな女の子を紹介してもらって……。サッカーよりもそっちの方が楽しかった。本業を忘れていたんです」

 

 96年シーズン、横浜マリノスからラモン・ディアス、ラモン・メディナベージョが抜けている。アルゼンチン代表経験のあるアルベルト・アコスタが加わったとはいえ、安永にとっては定位置獲得の好機だった。しかし、逆に出場機会は激減している。

 

 五輪代表でもはかばかしくなかった。3月に行われたアジア最終予選で出場したのはUAE代表戦のみ。後半13分に中田英寿に代わって途中出場。その4分後、相手ディフェンダーに倒された。その際、地面に右肩を強打し、肩鎖関節の靭帯を断裂した。途中交代で出場したものの、20分にピッチを退いた。続く最終予選の準決勝と決勝には出場できなかった。

 

 それでもまだ安永には運が残っていた。

 

 小倉がマレーシア合宿中の紅白戦で故障。全治6カ月の重傷だった。

 

 日本代表はアジア最終予選準決勝でサウジアラビア代表に勝利、メキシコ五輪以来、28年ぶりの出場権を手にした。

 

 安永は、95年のワールドユースでスペイン代表と対戦し、欧州の舞台で自分の力を試してみたいと思うようになっていた。五輪に出場すれば、その機会を手元に引き寄せることができるはず、だった――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)など。最新刊は『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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