吉田信一選手<中央>と記念撮影をする二宮清純<右>二宮清純: 吉田選手は高校生の時に交通事故に遭ったと伺いました。

吉田信一: はい。高校3年生の春、バイクでの交通事故で脊髄を損傷して車いすでの生活になりました。

 

二宮: ケガの後、卓球を始めたきっかけは?

吉田: 私は福島県出身なのですが、1995年福島国体の前年に、県が強化事業の一環として選手の募集をしていました。その時に知り合いの車いすメーカーの方から「車いす競技をやってみないか?」と誘われたんです。28歳の時でした。車いすバスケットボール、陸上競技などのパラスポーツを見て、自分の障がいでできることを考えて卓球に決めました。ケガをする前はサッカーや野球などチームスポーツをやっていましたが、個人競技は初めてのチャレンジでした。

 

二宮: その時代はパラリンピックのことは少しも知らなかったそうですね。ケガをして人生は大きく変わったと?

吉田: はい。今思えばですが、健常者としての人生も経験できたし、ケガをして車いす生活になりましたが、パラリンピックにも出場することができた。2度の人生を送っているような感覚です。自分にとってはその経験が一番の財産ですね。

 

 日本一を目指して東京へ

 

伊藤数子: その後、東京へ来られたのはどういった理由があったのでしょうか?

吉田: 日本一になるためです。卓球を始めてから5年ぐらいが経つと、県内ではある程度勝てるようになってきたんです。しかし、対戦していたのは健常者を含めた立位の選手でした。地元では車いす卓球の選手が少ないために試合をする機会自体があまりありません。東京に出れば車いすの選手はたくさんいます。私には"関東一になりたい""日本一になりたい"という思いがあったので、思い切って東京へ行く決断をしました。

 

二宮: 大きな決断だったと思います。その時おいくつでしたか?

吉田: 34歳になっていました。父親に「1週間だけ時間が欲しい。東京に行って仕事を探してくる。1週間で見つからなければ、帰って家業を継ぐ」と約束し、車に家財道具一式を積んで福島から東京へ出てきました。

 

二宮: 東京で職を探すにしても大変だったのでは?

吉田: ええ。当時募集条件が30歳未満に設定されているところもあり、条件のいい会社は多くありませんでした。それでも、どうしても気になる会社があったので、「見た目は若いです。面接だけでも受けさせてください!」と熱意を伝え、面接をしていただけることになったんです。

 

二宮: すごい熱意ですね。

吉田: 面接でも、「やる気は人一倍あります。パソコンもできないですけど、覚えます」と自分の想いを話しました。すると会社側も「そういうやる気のある人間をうちも欲しかったんだ」と受け入れてもらうことができました。担当者の方に「じゃあ頑張ろう」と右手を差し出されたときは、本当に嬉しかったですね。

 

二宮: 吉田さんの諦めない姿勢はこのWebサイト「挑戦者たち」というタイトルにピッタリですね。

吉田: ありがとうございます(笑)。頑張れるうちは頑張りたいと思っています。

 

二宮: 会社では仕事と練習のバランスは取れていましたか?

吉田: 練習はほぼ週末だけでしたね。フルタイムの仕事でしたので夜遅くまで業務に追われていました。それでも、「時間は自分で作ればいい」と思っていましたので自宅に卓球台と球出しのマシンを置いて、帰宅後にトレーニングをしていました。

 

伊藤: 確かに、当時は社会全体としてパラスポーツに対するバックアップ体制はほとんど無かったですよね。

吉田: そうですね。その会社には6年在籍したのですが、競技にもっと専念するため、もう1度転職をして今の情報通信研究機構にお世話になっています。現在は、フレックス制なので自分で練習時間のコントロールができますし、海外遠征で長期間仕事を離れることに対しても上司が理解をしてくれています。とても競技に集中しやすい環境を作っていただいています。

 

(第3回につづく)

 

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1703chPF吉田信一(よしだ・しんいち)プロフィール>

1965年12月13日、福島県生まれ。車いす卓球クラス3。17歳の時に交通事故で車いす生活となる。28歳で車いす卓球を始めると、国内外の大会で優勝した。2014年インチョンアジアパラではシングルスベスト8に入り、団体では銅メダルを獲得。2016年にはリオデジャネイロパラリンピックに出場した。世界ランキングは23位(2017年3月現在)。情報通信研究機構卓球部/ディスタンス所属。


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