1996年3月24日、オリンピック日本代表は準決勝のサウジアラビア戦で2対1と勝利。アトランタオリンピック出場権を獲得した。

 

 28年ぶりのオリンピック出場権を獲得したことで、日本代表には大きな注目が集まっていた。

 

 5月5日、抽選会が行われ、日本はブラジル、ナイジェリア、ハンガリーと共にグループDに入った。初戦は7月21日、対ブラジル戦と決まった。

 

 続く興味は、誰が代表の18人に入るか、だった。本大会では23才以上の選手をオーバーエージ枠として3人まで招集することができた。しかし、五輪代表の監督だった西野朗は早い時期に、「この年代に経験を積ませたい」とオーバーエージ枠を利用しないことを明言していた。

 

 5月14日、チュニジア合宿の参加メンバーが発表されている。これは本大会の準備に加えて、選手選考の材料とするためだった。その中にはすでにA代表候補に選ばれていた三浦淳宏も含まれている。18人は、ワールドカップ登録メンバーの23人よりも少ない。チームの戦い方を絞り込んで選考しなければならなかった。

 

 ただ、安永聡太郞はこの合宿を怪我という理由で辞退している。

 

 ある日、西野から安永に電話が入ったという。

 

「ぼく、新聞で“(控え選手として選ばれるのならば)オリンピックに行きたくない”って言っちゃっていたんですよ。なんかカッコつけていたんでしょうね。すると西野さんはこう言った。“現状ではお前は11分の1ではない。ただ18分の1として考えている”と」

 

 つまり、先発メンバーではないということだ。

 

「西野さんは“18分の1でいいか”と、聞いた。“それだったらぼくは試合に出たい。マリノスにいてレギュラーを獲ったほうがいいと思います”って。それは嘘ではない。素直な気持ちだった」

 

 安永は苦笑いしながら、こう付け加えた。

「それでも(メンバーに)入ると思っていた。馬鹿だったから」

 

 安永の自信は裏付けがなかったわけではない。中盤は中田英寿や前園真聖などの才能が揃っていたが、フォワードは限られていた。フォワードの軸だった小倉隆史は怪我で不参加、若く、伸びしろを感じさせる安永は“滑り込み”で入る可能性が高かった。

 

 安永の記憶によると、メンバー発表前日、6月16日、当時契約していたスパイクメーカーの担当者から連絡が入ったという。

 

「担当者はぼくが五輪代表に入っていると聞きつけたんでしょう。“オリンピックのための特注のスパイクを仕上げるから”って。こっちは“ああ、了解っす”。やっぱり入ったと思っていた」

 

中田、松田に感じたひけ目

 

 ところが――。

 

 発表当日、安永はいつものようにマリノスの練習に参加していた。練習後、オリンピック代表に呼ばれた選手は集められるのが通例だった。

 

「うちからは、いつも(川口)能活、遠藤(彰弘)、(松田)直樹、ぼくの4人が選ばれていた。今までは4人集まれって呼ばれて、“お前ら、代表行ってこい”って言われた。でもその日だけは、能活、直樹、遠藤って1人ずつ名前を呼んだ。なんだ、変わってんなぁと思っていたら、最後にぼくが呼ばれた。そして“お前は落ちた”って」

 

 そのとき、安永の体に立ち上ってきたのは、悔しさではなく、恥ずかしさだったという。

 

「うん、恥ずかしいというのが強かった。“チームの中で(落ちたのは)俺だけかよ”って。格好悪いなって思って、速攻、親に電話した。“ごめん、入らなかったわ”って。でも冷静に考えると、膝が痛いという理由でチュニジアの合宿は休んでいるし、出場権獲得の試合となった対サウジアラビア戦にも出ていない。入るわけはないんです。でも自分では入ると思っていた」

 

 後から安永は、発表当日の朝、緊急ミーティングが開かれたという話を聞いた。

 

「本当かどうかはわからないですが、やっぱりチームのために戦える奴を選ぼうという話になったらしい。それでぼくが外れた」

 

 18人の中には、安永と共にワールドユースに出場した2人の選手が入っていた。中田と松田である。

 

 79年の自国開催以来、ワールドユースに出場した安永たちは、プロ化以降の日本サッカー界で初めて世界の壁とぶつかった人間たちだったといえる。そこで中田や松田は自分の課題を見つけていた。

 

「中田とか本当に(練習を)やっているなぁと。直樹も自分の体と向き合いながら、筋トレを始めていた。(それまで)直樹は性格に波があって、パフォーマンスが一定しないところがあった。それがコンスタントに出来るようになっているなと思って見ていた」

 

 2人と比べると、自分は真摯にサッカーと向き合っていないという、ひけ目があった。「だからこそ、オリンピックから目を背けたのかもしれない」と安永は言った。

 

「(アトランタオリンピックの)試合は観ていない。ちょうど、マリノスの合宿に行っていたんじゃないかな。記憶にない。カッコつけでしょ。“俺、興味ない”ってね」

 

 周知の通り、オリンピック日本代表は初戦でブラジル代表を1対0で破った。グループリーグは勝ち抜けなかったものの、前園、中田たちは時代の寵児ともいえる存在となった。そして、97年5月、中田は韓国代表との親善試合で初めてA代表に招集されている。その後、彼は日本代表の中心選手としての階段を駆け上がることになった。

 

 安永はそんな中田の姿を横目で見ながら、自分は違った道を突き進んでやるのだと心に決めていた。

 

 この連載で触れたように、彼は横浜マリノスに入る際、国外留学に行くという条件をつけていた。その留学はオリンピック代表のために先延ばしされていた。そのカードを切るときが来たのだ――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)など。最新刊は『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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