大矢明彦(元プロ野球選手)第34回「早実・清宮、インハイ対策よりも選球眼を磨け」
今回の白球徒然はヤクルトで活躍した大矢明彦さんに話をうかがいました。早稲田実業高出身の大矢さんは母校の後輩たちの話題には口も滑らかでしたが、連敗の泥沼にハマる古巣には苦笑いしきりでした。名捕手として鳴らした大矢さんから見た怪物・清宮幸太郎評や、今、球界で注目するキャッチャーなどプロアマ球界の話題をたっぷりとお届けします。
番号で呼ばれた早実時代
早実野球部の練習は自主性を重視すると言われていますが、僕らの時代は普通に厳しい練習でしたよ。というのも1学年で部員250人という時代だったので、どんどんとふるいにかけるために1年生はグラウンドにも入れずにランニングなど厳しいメニューばかり。野球部の練習ユニホームは前後に名前が入るのが普通ですが、当時の早実は番号でした。監督さんが「名前なんて書いても人が多すぎて覚えられないから」という理由です(笑)。僕は205番でしたね。
2年の夏までは内田梅吉さんが監督でしたが、2年夏の東京都大会決勝で敗れて甲子園に行けず、勇退されました。後任は和田明さんで、和田さんは選手と年齢も近いこともあって兄貴分のような感じでした。今思えば和田さんにはのびのびと野球をやらせてもらったのかもしれません。荒木(大輔)たちが言う「自主性を重視」は和田さんが始まりでしょうか。
「清宮はどうですか?」とよく聞かれるのですが、高校生としては抜けた存在なのは間違いありません。スイングがコンパクトで鋭いので、金属バットだから打てているという印象はありません。木製バットになったら? プロで苦労するのはバットの問題ではなく、ピッチャーのレベルが格段に上がることなんですよ。
「清宮はインハイが弱い」と言われていますが、インハイに強い打者なんていませんよ(笑)。いかなる強打者でもインハイを完璧に捉えてスタンドまで運ぶのは年に1本あるかないかというレベル。インハイを織り交ぜて攻められる中で、いかに自分が打てる球を見極めるか。その選球眼を鍛えられるかどうかの方が重要です。高校野球のピッチャーは正々堂々と真っ直ぐを主体にした攻めですが、プロは変化球が軸になります。インハイ、そして変化球と揺さぶられて清宮がどう対応するか、プロに行ったらそこを見てみたいですね。
たぶんプロ入りしたら松井(秀喜)の1年目のように注目されるでしょう。周囲は騒がしいでしょうが「打てないコースは打てねえんだよ」くらいの割り切りも必要ですよ。
将来が楽しみなSB甲斐
プロ野球では東京ヤクルトの連敗が話題です。OBとしてもちろん気になりますが、あれだけ故障者がいたら監督(真中満)も打つ手はないですよ。選手層が薄いので1人が抜けただけで、大きな穴が空いてしまう。原樹理など投手のドラフトはうまくいっているので、今度は野手の補強など編成面での見直しが必要でしょう。
私は1970年、ルーキーの年に16連敗(アトムズ)を経験しました。「プロというのはたくさん負けるもんだなあ」と思ったもんですよ。高校野球、そして大学野球では1敗は大変なことでしたから、プロでは「あれ、先輩たちは悔しくないのかな」とまで思ったものです。
私はその後、ヤクルトで優勝を経験しました。同じ野球でも「勝つためにやる」という気持ちのときと、「負けないためにやる」というのとでは、結果が違ってくるのが分かりました。連敗中やチーム状態が悪いときには「負けないために」という気持ちが大きくなって、それが無難なプレーになって、結果、ミスにつながることがあるんです。
現状のヤクルトでは、いっそのこと”答えの出ていない選手”を使うような思い切りがほしいですね。1軍経験のない選手を起用すればすぐに結果は出なくても、その経験が先のプラスになるかもしれませんから。
最後にひとつ。今、球界で注目しているキャッチャーの名前をあげましょう。福岡ソフトバンクの甲斐拓也です。彼は何か”昭和の香り”がする選手なんですよ。積極的にワンバウンドを止めにいく姿勢や、あとスローイングも、実に昔ながらのキャッチャーらしさがある。牽制など瞬時の判断力もあるし、打つ方でもパンチ力があります。非常に楽しみな存在ですよ。リード面の問題があるかもしれませんが、それはソフトバンクには達川(光男・ヘッドコーチ)がいるから大丈夫でしょう。
ヤクルトの中村悠平も期待を込めて名前をあげておきましょうか。優勝したときはインサイドの使い方がうまかったんですが、昨季あたりはちょっと行き過ぎの感がありました。インコースに拘りすぎて痛い目に遭ってましたね。ただ今季はインサイドを見せて、ボール球で勝負するなどまた攻め方が落ち着いてきた。これで投手陣が整ってくれば中村ももう一皮むけるんじゃないでしょうか。
<大矢明彦(おおや・あきひこ)プロフィール>
1947年12月20日、東京都出身。早稲田実業では2年夏からレギュラー捕手となる。2年夏、夏の東京都大会決勝で修徳高に敗れ、翌65年夏は荏原高にサヨナラ負けを喫して甲子園出場はならず。卒業後、駒澤大学に進学して東都大学リーグで活躍。リーグ通算94試合に出場し2割5分8厘、12本塁打、53打点。ベストナイン4回。70年、ドラフト7位でヤクルト(当時アトムズ)に入団。1年目からレギュラー捕手の座をつかみ、以後ヤクルト一筋。78年、球団初のリーグ優勝に貢献した。84年からコーチ兼任となって85年に現役引退。引退後は93年~95年まで横浜ベイスターズのバッテリーコーチ、96~97年、07年~09年は横浜の監督を務めた。NPB通算打率2割4分5厘、93本塁打。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回。