わたしが彼の立場ならば、正直、いたたまれないだろうなとは思う。だから、わかる気もする。先週、ハリルホジッチ監督がボール保持率へのこだわりがいかに間違っているかを力説した件である。

 

 いまや、世界中の多くの国で、代表チームから年代別のチームに至るまで共通の認識を持って戦っていこうというスタイルが常識になりつつある。基本となるのは、むろん、A代表の戦いぶりである。

 

 ところが、日本サッカー協会が東京五輪を目指すチームの監督候補としてピックアップした中に、森保一氏の名前があった。ハリルホジッチからすると、自分が必死になって否定してきたスタイルの信奉者が、すぐ下のカテゴリー、しかも地元五輪を目指すチームの監督候補としてあげられたのである。

 

 自分がやってきたことを協会は評価していないのか。わたしだったら疑心暗鬼にもなる。だから、ボール保持率を徹底して否定した先週の記者会見は、記者に、国民に向かってというよりも、協会の人間に聞かせたかったからなのではないか、と思ったりもした。

 

 だが、それでもわたしはハリルホジッチ監督のやり方を支持できない。

 

 相手によってカメレオンのようにやり方を変える彼のスタイルが、強敵を相手に戦う上で素晴らしく有効なのは間違いない。同様のやり方をとっている監督は世界中にごまんといる。02年のW杯で韓国をベスト4に導き4年後にはオーストラリアを率いて日本を失意のどん底に突き落としたヒディンク監督などは、その最たる例と言ってもいい。

 

 06年のW杯が終わったあと、わたしはヒディンクに話を聞くことができた。日本が負けた理由がよくわかった。ただ、ならば彼に日本の監督をやってほしいとは、なぜか思わなかった。

 

 最近になって、ようやくその理由がわかってきた。02年W杯日韓大会における隣国の躍進を、わたしは「韓国の奇跡」ではなく「ヒディンクの奇跡」と感じていたからだった。ヒディンクが去れば魔法も消える。そんな日本になるのが耐えられないからだった。

 

 案の定、あの大会で劇薬を味わってしまった韓国の監督選びは、長く迷走を続けている。同じくマジックを経験したオーストラリアは、劇薬に頼るのではなく“体質改善”をして戦う方向に舵を切った。いまのところ、その効果はまったく出ていないが、将来的にはより手ごわい相手になるのではないかとわたしは思う。

 

 メキシコは、誰が監督をしてもメキシコである。だが、アルジェリアはハリルホジッチが監督をやめた途端、別のチームになってしまった。そして、今回は早々に予選で消えた。

 

 W杯で結果が残せるならばそれでもいい、という考え方もあるだろう。だが、わたしはイヤだ。日本には、魔術や奇跡に頼らなくても頂点を狙えるだけのポテンシャルが眠っていると思うから。

 

<この原稿は17年10月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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