水泳日本代表として3度のパラリンピックに出場した江島大佑選手。初出場となったアテネパラリンピックでは4×50メートルリレーの第1泳者として、銀メダル獲得に貢献した。リオデジャネイロパラリンピックは代表に内定しながら、原因不明の体調不良により辞退を余儀なくされた。3年後の東京パラリンピックを集大成に掲げる。現役スイマーでありながら若手と合同合宿を開催するなど、選手の強化・育成にも力を入れている。現在31歳。ベテランの域に達してきた江島選手が未来へ伝えたいこととは――。

 

伊藤数子: 今回のゲストは水泳日本代表として、3度のパラリンピック出場を果たした江島大佑選手です。

江島大佑: 本日はよろしくお願いします。

 

二宮清純: 江島選手は元々水泳をされていたそうですね。名門のイトマンスイミングスクール出身だとお聞きしました。

江島: イトマン京都に通っていました。きついトレーニングの毎日でしたが、背泳ぎでオリンピック選手になることを目指して、取り組んでいました。

 

二宮: その夢を追いかけている最中にプールサイドで倒れたと伺いました。中学1年で脳梗塞というのは驚きました。

江島: お医者さんにも「若いのに珍しい」と言われました。実際、何の予兆もなかった。体質的なものかと思われますが、はっきりとした原因はわからないんです。この脳梗塞が原因で左半身に麻痺が残りました。

 

二宮: これから水泳で“オリンピックに出たい”と考えていた矢先でのこと、ショックも大きかったのでは?

江島: いえ。最初は本当に軽く考えていました。実は倒れた直後は、意識が朦朧としていましたが少しだけ記憶も残っています。毎日がきつい練習だったので、"やった。これで練習さぼれる"と思ったぐらいです。でも次に目が覚めたら病院の集中治療室にいました。

 

伊藤: 学校はどのくらいお休みになったのでしょうか?

江島: 半年です。ずっとリハビリなどに費やしていました。一番つらかったのは「元のようには戻らない」と言われたこと。リハビリもすぐに成果が出るわけではなかったので、ずっと同じことをやりながら“果たして意味があるのか”“なんで僕にこんな試練を”と胸が潰れそうになりました。誰にこの気持ちをぶつけたらいいのかもわかりませんでした。病気でしかも原因不明ですから。毎日泣いていました。

 

二宮: その後、パラリンピックの道があると知ったのはいつ頃ですか?

江島: 半年間のリハビリを経て、ようやく中学2年生の時に復学しました。水泳はもうできないと思っていましたし、実際泳いでいませんでした。一時期は何も目標もなく学校に行っていたのですが、中学3年の時に2000年のシドニーパラリンピックをたまたまテレビで見ました。その時にテレビに映っていたのが、成田真由美さんだったんです。

 

伊藤: パラ水泳界のレジェンドですね。シドニーパラリンピックでは6種目で金メダルを獲得しました。

江島: その時に初めてパラリンピックの世界を知りました。"もう1回水泳をはじめれば、もしかしたら、自分もこういう世界へ行けるのではないか"と。それで高校は少し遠くても水泳部のある私立校を選びました。

 

二宮: とはいえ、ある意味、自分の青春を奪ったようなところもある水泳にもう1回戻ることは複雑な気持ちもあったんじゃないでしょうか?

江島: それが不思議となかったんですよ。プールサイドで発症して倒れたならば “水泳はもうやめよう”と別の道に行くのが普通かもしれません。でもやっぱり成田さんの泳ぎを見たということと、途中で諦めざるを得なかった水泳にもう1回チャレンジしたかった。そして何より純粋に水泳が好きだったんです。

 

(第2回につづく)

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江島大佑(えじま・だいすけ)プロフィール>

1986年1月13日、京都府生まれ。S7クラス。3歳から水泳を始める。12歳のときに脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残った。2000年シドニーパラリンピックをテレビで見て再び水泳をスタートする。立命館大学に進学後、2004年アテネパラリンピックに出場。初出場ながら4×50メートルメドレーリレーで銀メダルを獲得した。2006年にはワールドカップ50メートル背泳ぎで世界記録を樹立。2008年北京パラリンピックでは100メートル背泳ぎで5位入賞、50メートルバタフライでは4位入賞を果たした。2012年ロンドンパラリンピックは50メートルバタフライで5位入賞。若手育成・強化のための合同合宿「エジパラ」を開催し、後進の育成にも力を入れている。株式会社シグマクシス所属。


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