プロ野球、注目のドラフト会議が終わりました。早実の清宮幸太郎君は北海道日本ハムに決まりましたね。彼がどんな活躍をするのか今から楽しみです。他にも広陵・中村奨成君、履正社・安田尚憲君など高校野球を盛り上げた選手たちが1位指名を受け、これからの野球人生に胸を膨らませてることでしょう。自分を信じて信念を貫き、頑張って欲しいと願います。


 さて今回はドラフトの時期ということで、自分がプロに入団する前の思い出を書きたいと思います。1984年夏、都城高は甲子園3回戦でPL学園に敗れ、私の高校野球は終わりました。試合後のインタビューで「田口君はこの後はどうするの?」と聞かれ、「オリンピックに出たいので社会人野球に進みます」と答えたことを明確に覚えています。

 

 なぜ社会人だったのかというと、甲子園が始まる前に監督から「田口、お前はプロはまだ早いから社会人に行け」と言われたからです。当時、監督の言葉は絶対で、疑問に思うこともなく「俺は社会人に行く」と決め、プロに進む選択肢を消し、行動を始めました。

 

 社会人といっても当時は多くのチームがあり、どこがいいのか、誰に相談していいのかもわからない状況でした。そんな中でアドバイスをしてくれたのが、高校の近くにあるスポーツ店の店主の方でした。その人は明治大学から日産自動車に進んだという経歴を持ち、相談をしてるうちに「日産自動車に行きたい」と思うようになったんです。

 

「日産いいですね。自分行けますかね?」と聞いたところ、「日産の監督さんが是非来て欲しいと言っているよ」とトントン拍子で話が決まっていきました。甲子園の後、たくさんの社会人、大学からお誘いを受けましたが、日産自動車に行くと決めていたので、すべてお断りし、セレクションのため上京することになりました。

 

 あれは忘れもしない84年9月30日です。羽田空港に到着すると、日産の監督、スタッフの方が出迎えてくれ、日産の高級車「プレジデント」に乗せられました。本社かグラウンドに行くのかと思いきや、謎の場所に到着。車を降りたら、目の前にヘリコプターがありました。高所恐怖症なので「これに乗るのかよ。乗りたくない」と心でつぶやきましたが、一緒にセレクションに来ていた高校生3人とヘリコプターに乗り込むことに……。

 

 東京近郊にあるプロ野球で使用する球場の上を飛んでくれたのですが、私は下を見ることもできず、約1時間のフライト中ずっと手に汗をかき続け、他の3人に笑われていたのを思い出します。

 

 どんでん返しでプロ入り

 その後はディズニーランドに連れていってもらいましたが、ディズニーに全く興味のない私には見るものもなく、また修学旅行シーズンだったので、ファンの女子高生に追いかけられる始末でした。日産の方と一緒に目立たないところに隠れて、「田口君の人気は凄いねー」と苦笑いされたものです。こうして何のために行ったのかわからない人生最初で最後のディズニーランド観光が終わりました。

 

 その後、日産による歓待はまだ続きました。ディズニーランドを後にして次に向かったのはテレビ番組「ザ・トップテン」の収録スタジオでした。堺正章さん、榊原郁恵さんが司会をしている歌番組で、数名の歌手を生で見れたのは嬉しい限りでした。そして、夕食は赤坂の有名中華料理店。高校時代は寮のご飯しか食べたことがなかったので、出される料理がすべて目新しく、がっついて食べてたのを覚えています。

 

 この日はこれで解放され、次の日に本社を見学したあと、グラウンドに向かいました。監督から「田口君、本当に日産に来てくれるのかな?」と聞かれましたが、最初から日産に行くつもりだったので、何の迷いもなく「はい! ここでオリンピックを目指したいと思います」と返答しました。ところが、ところが、ドラフト前にどんでん返しが待ってたんです。

 

 何が起きたかと言えば、ドラフト会議の1週間前に監督の家に呼ばれ、「田口、プロに行け」と一言。心の中で「えっ、日産自動車に決まっているのに……」と思ったものの、監督の声は絶対でした。「はい。わかりました」とうつむき加減に返事を返すと、「プロに指名されたら『社会人に行くと決めているので、両親と話をしてから決めたいと思います』と言えばいい」と他人事のような言葉をいただきました。でも絶対なんです、監督の言葉は。「あれだけ歓迎してくれた日産自動車をこんなに簡単に裏切ることなんて……」と思いながら、ドラフト当日を迎えることになりました。

 

 午前の授業中に先生から呼ばれ、会見場に行く道中、先生が興奮気味に「田口、南海からドラフト1位で指名されたぞ!」と教えてくれました。本来なら喜びが爆発するところですが、日産自動車に後足で砂をかける行為をしてしまう自分がとても嫌で、何とも言えない気持ちで会見に臨んだことを忘れることができません。

 

 最終的にプロに行くことを決断し、日産自動車にお断りの電話を入れたのですが、本当に心苦しく、人を裏切ることは今後一切しないと決めた瞬間でもありました。

 

 人に歴史ありとはよく言いますが、自分にとってプロ入りは「人を裏切ることをしてはいけない」という教訓を心に刻んでくれたこととなりました。今でも日産自動車の方々には申し訳ない気持ちでいっぱいなので、この場を借りて当時のことを謝罪させていただきます。裏切り行為、本当に申し訳ありませんでした。今は休部状態になっていますが、いつの日かまた日産自動車野球部が復活することを願っています。

 

 

1600314taguchi田口竜二(たぐち・りゅうじ)
1967年1月8日、広島県廿日市市出身。
1984年に都城高校(宮崎)のエースとして春夏甲子園出場。春はベスト4、夏はベスト16。ドラフト会議で南海ホークスから1位指名され、1985年に入団し、2005年退団。現在、株式会社白寿生科学研究所人材開拓グループ長としてセカンドキャリア支援を行なっている。

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