東京五輪サッカー男子日本代表監督にサンフレッチェ広島前監督の森保一が就任した。ユース世代の代表コーチを務めたことと、広島の指揮を執り3度のリーグ優勝に導いた手腕が評価されての人事だった。森保は現役時代、1992年に日本代表のハンス・オフト監督に呼ばれるまで無名のボランチだった。だが、そこから彼は“ドーハの悲劇”を戦ったオフトジャパンにとって替えのきかない存在にまで成長する。“非エリート”はいかにして名ボランチにのぼりつめたのだろうか。24年前の原稿で振り返ろう。

 

<この原稿は1993年6月号『DENiM』(小学館)に掲載されたものです>

 

「ウチのコーチから“日本代表入り”の話を耳にしたときは、冗談かと思いました。“悪い冗談はやめて、本当の用件は?”と聞き返してしまったくらいですから……」

 

 森保一はサッカー界のシンデレラ・ボーイだ。日本代表入りしたのが昨年5月。そのとき、サッカー関係者の間からは「あのサンフレッチェ広島の若い選手ってそんなにいいの?」という冷ややかな声が漏れた。

 

 無理もない。日本リーグ(マツダ)の1部で彼がプレーしたのは、91年~92年のわずか1シーズン。それも18試合に出場して4得点をあげたのみだったからだ。

 

 ところが、代表デビューとなった92年キリンカップでのアルゼンチン戦で、無名のルーキーは大いに名を揚げる。「日本の選手で誰が一番目立ったか?」という記者団の質問に、アルゼンチン代表のバシーレ監督は、迷わず「17番!(森保の背番号)」と答えたのだ。世界的に名の知れたストライカーのカニージャも「いやになるほど17番がいつもいるんだ。僕にとって一番嫌だったのがあの17番だよ」と手放しで健闘を称えた。

 

 優勝した昨年11月のアジアカップでは、一度も試合ごとのMVPに選ばれなかった森保に、“影のMVP”としてカメラマンたちから心尽くしのパネル写真とオルゴールが手渡された。

 

 代表入りしたときは、先輩たちから「キミ、どこのポジションだっけ?」と真顔で尋ねられた森保だが、確実でしかも判断力にすぐれたプレーでディフェンシブ・ハーフという地味なポジションをこなしきり、今では代表チームになくてはならない存在にまで成長した。

 

 先のイタリア遠征では、世界最高峰のサッカーリーグといわれるセリエAの名門ユベントス、インテルと連続して対戦、ユベントス戦はカゼのため精彩を欠いたが、インテル戦では、持ち前の献身的なプレーで何度かピンチを未然に防ぎ、インテルのバニョーリ監督をして、「クレバーで印象に残る選手だ」といわしめた。

 

 93キリンカップのハンガリー戦でもいたるところで身を挺したカバーリングを見せ、日本代表のオランダ人監督ハンス・オフトから二重丸の評価を受けた。

 

 日本より先に世界が認めた才能、森保一。サッカーを始めたのは小学6年のときだが、彼はこれまで一度としてエリート・コースに身を置いたことはなかった。長崎の少年なら誰もが憧れる高校サッカー界の名門・国見高校からは誘われず、日本リーグのマツダ入りもテスト生同然。しかも地域リーグからのスタートだった。

 

 試合に出れば出たで、「森保・一」ではなく「森・保一」と紹介され、地元・広島での開催だったというのに、先のアジアカップでは「モリホ!」という声がスタンドから上がったりもした。

 

 失礼を承知でいえば、日本代表レギュラーの中で最も無名であり、影の薄い男。しかし、成り上がって来た男にも意地はある。彼はいう。

 

「お陰でハングリー精神だけは筋金入りですよ」

 

 一瞬、温厚な瞳がキラリと輝いた。

 

 国見に行けなったからサッカーに打ち込めた!

 

「ハングリー精神と、目標を常に高く持つこと。今の僕があるのは、そのふたつのことを常に意識してきたからだと思います。サッカーに関しては、やっぱり勝ち気なんでしょうね。

 

 僕が中学3年のときでした。当時、島原商にいた小嶺忠敏監督が、国見に異動になるという話が流れ、地域で評判になっていた連中は皆、国見を受験した。

 

 僕も一応、受験票はもらったんですが、誘われもしなかったし、自信もなかったから直前になって受験を取り止め、長崎日大を受けた。何しろ、僕くらいの実力の選手は島原地区にはごろごろいましたから。

 

 その日以来、目標は”打倒国見!”に変わったわけですが、何回やっても国見にはまったく歯が立たなかった。結局10回くらいやって1回勝っただけかな。それも僕が1年のとき、こっちは3年生入っているのに、国見はオール1年生というチームに。体力も技術も、何もかもが違っていましたね。

 

 とにかく国見に対しては、悔しいという思いしかない。何しろ国見の連中は、しょっちゅうインターハイや冬の選手権に出て、檜舞台で活躍しているというのに、こっちにはまったくそういう機会がない。正直にいえば、悔しい半面、羨ましいという気持ちもありました。

 

 2年のころ、実は一度だけ部活をやめたことがあるんです。苦しい練習をいくらやったところで、しょせん、国見には勝てない。そう思うと、やる気がなくなってきた。国見に対して”このやろう!”という気はあっても、勝てないんじゃ話になりませんからね。

 

 それで、友達とつるんではバイクを乗り回していました。国見に勝てない悔しさをオートバイでまぎらわせるという日々が、しばらく続きました。

 

 まぁ、もともと遊ぶことは嫌いなほうじゃなかったですからね。高校に入るときも、髪の毛を赤茶色に染めていたため注意され、全部カミソリでそられてしまったこともありましたよ(笑い)。

 

 結局、監督に謝って、部には1週間で戻りました。まじめなのはサッカーだけ。そんな少年でした。

 

 なぜ、サッカーにのめり込んでいってしまったのか、自分でもよくわからないんです。だけど、小学校の卒業文集の『将来の夢』というところに、“サッカーの全日本代表選手になること!”と書いているんですよ、自分でも忘れてたけど(笑い)。今年の正月、そのころの友達から“オマエの夢、本当に実現したんだよなァ”といわれたときにはうれしかったですね。

 

 高校時代、全国大会の経験は3年時、国体の県代表メンバーに選ばれた一度だけです。でも、国見の選手が主体だったため、試合には一度も出られませんでした。グラウンドの隅で、国見以外から選ばれたもうひとりの補欠とボールを蹴って遊んでいました(笑い)。

 合宿ではなく分宿だったため、夜はカラオケを歌いまくったりとかね。オレたちは試合に出なくていいから気楽だよなぁ……なんていいながら、ふたりで夜遅くまで歌っていました。本当は出たかったんですけどね(笑い)。

 

 その程度の選手だったから、卒業が間近にせまっても、実業団はおろか、大学からも誘いがない。途方に暮れて監督に“どこか紹介してほしい”と頼んだんです。

 

 監督が紹介してくれたのは、コネのあったマツダ。愛媛で行われたテストを受けに行ったんですけど、5、6人いた高校生の中で、実際に技能を試されたのは、僕ひとりだけでした。体も細かったから、期待されてはいなかったんでしょうけどね。

 

 なぜ大学に進まず、日本リーグのチームのテストを受けたかというと、国見の選手に負けたくなかったからです。国見の連中は全国大会で活躍しているから、ほとんどサッカーの強い大学にスカウトされていく。そして、4年後、日本リーグのチームに入ってくる。

 

 そんな連中に勝つには、最初から日本リーグのチームに入り、4年間でみっちりと自らを鍛えるしかない。そう思ったんです。ここでいったん逆転しておかないと、また彼らの後を追うことになってしまう。それだけは絶対に避けたいってね。

 

 別に国見の選手に対し、恨みはないんですよ。だけど、目的を持たないと、気がつかないうちに流されちゃいますからね。だから勝手に国見の選手たちをライバルにさせてもらった。会えばいい友達なんですけど、こっちには発奮材料が必要だった。いま思うに、国見の選手たちには感謝しないといけないのかもしれない(笑い)」

 

(後編につづく)


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