ツルンとした優等生的な発言をする選手が増えた今、この元アスリートの話は、いつ聞いてもおもしろい。その御仁とはロンドン五輪女子卓球団体銀メダリストの平野早矢香。過日、四国・松山で久しぶりにヒザを交えて長時間話す機会があった。


 平野と言えば、プレー中のコワモテの形相から、現役時代は“鬼のヒラノ”と呼ばれた。相手を射すくめるような鋭い視線がトレードマークだった。


 何事もとことん突き詰めなくては気が済まないタイプである。しかも大の負けず嫌い。勝負師の心得とは…。北京五輪を翌年に控えた22歳の時だ。意を決して町田市にある雀荘の門を叩いた。それまで平野は雀卓を囲んだこともなければ牌に触れたこともなかった。麻雀のマの字も知らない彼女がお目通りを願った相手は「20年間無敗」を誇る伝説の雀士・桜井章一。平野が「卓球の鬼」なら、こちらは「雀鬼」である。なぜ桜井なのか。平野は語った。「卓球も麻雀も心理戦。その極意を知りたかったんです」


 会うなり桜井は言った。「ここで素振りをしてみなさい」。とりあえずラケットを用意していたとはいえ、雀荘で素振りとは…。面くらいながらも必死でラケットを振った。「平野さん!」「はぁ」「あなた左手がうまく使えてないねぇ」。卓球でラケットを持たない手をフリーハンドという。すなわち逆の手をもっとうまく使えるようになれば殻を破れるというのである。図星だった。麻雀でも大事なのは利き手とは逆の手だというのが雀鬼流である。桜井は一目でそれを見抜いたのだ。


 さらに桜井は続けた。「ちょっと牌を握ってくれる」。言われるがまま、目の前の牌を右手で取る。「平野さん、ギュッと握り過ぎだね。ちょっと私の手を触ってごらん」。恐る恐る手を差し出すと、まるで牌はマシュマロに包まれているかのようだった。


「平野さん、このくらいでいいんだよ。握っているか握っていないかわからないくらいの感覚。ラケットもこのくらいの感覚で握らなきゃ」。そう言うなり桜井は指に包んだ牌を目にも止まらぬスピードで切ってみせた。「その瞬間、カーンと音がしたんです。それは衝撃的な体験でした」。強くなるならどこにでも出向く。誰とでも会う。この貪欲さが「センスのない自分」(本人)をメダリストに押し上げたのだろう。経験談の宝庫である。

 

<この原稿は17年11月29日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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