殿堂入りは野球選手にとって最高の栄誉である。先頃発表された「平成30年度エキスパート表彰候補者」の中に懐かしい名前があった。元阪急の足立光宏と元ヤクルトの松岡弘である。


 この2人が日本一の座をかけて投げ合ったのは今から39年前のことである。1978年の日本シリーズは阪急とヤクルトの間で行われた。日本シリーズ4連覇を目指す阪急に対し、ヤクルトは初めてのシリーズ出場。下馬評は圧倒的に阪急有利だった。


 しかし、野球はやってみなければわからない。シリーズは3勝3敗で第7戦にまでもつれこんだ。10月22日、後楽園球場。先発はヤクルトが31歳の松岡、阪急が38歳の足立である。


 球史に残る“事件”が起きたのは1対0とヤクルトリードで迎えた6回裏だ。足立の高めに浮いたシンカーをヤクルトの4番・大杉勝男がフルスイングすると、ライナー性の打球はレフトポール際に消えた。


 フェアかファウルか。大杉は一度、打席で打球の行方を確認し、左翼線審・富澤宏哉が手を回したのを確認して走り始めた。おさまらないのは阪急ベンチだ。上田利治監督は脱兎のごとくベンチを飛び出し、一直線にレフトポールに向かった。「ファウルだ。切れたじゃないか!」「ポールの上を巻いている」「アンタ、ウソ言ってるよ」。金子鋭コミッショナーが仲裁に乗り出す異例の抗議は1時間19分に及んだ。


 足立の心中は複雑だった。判定に関しては納得できなかったが、「もうやった方がええんちゃうか……」。それが本音だった。というのも足立は左ヒザの半月板に古傷があり、冷えると水が溜まり、歩くことさえできなくなるのだ。「抗議が30分を過ぎたあたりかな。“もう無理や”と観念しました」


 一方の松岡はどうか。肩を冷やさないようにとラバーコートに身を包んでキャッチボールを行っていた。これがよかったというのだ。「適度の休養になりました。失いかけていた活力を取り戻すこともできました」


 足立にとっては仇となった、すなわち「暗」の抗議が松岡には「明」と出た。試合再開後のマウンドに足立の姿はなかった。逆に松岡は尻上がりに調子を上げ、7安打完封勝利で球団初の日本一の立役者となった。以来、交わることのなかった2つの轍。殿堂ホールで行われる通知式での再会を願う。

 

<この原稿は17年12月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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