トーナメントの頂上まで、あと一歩だった。明治神宮大会で北海道2連盟代表の星槎道都大は決勝で日体大に0対3で敗れたものの、北海道勢として初の準優勝を果たした。6月の全日本選手権も含め、道内の大学が大学日本一を決める大会で決勝に進出したのは、これが初めてだった。


 寒冷地ゆえ、長きに渡って北海道は「野球には適さない地」と言われてきた。北の大地に初めて「全国優勝」をもたらしたのは社会人野球の大昭和製紙北海道(現WEEDしらおい)。1974年夏の都市対抗で新日鉄八幡(北九州市)を下し、黒獅子旗を持ち帰った。国道36号線沿いの優勝パレードでは町民総出で選手たちを祝福する光景が広がっていた。


 続いての全国優勝は04年夏の甲子園。駒大苫小牧(南北海道)が四国の強豪・済美(愛媛)を下し、深紅の大旗が初めて津軽海峡を越えたと話題になった。同校は翌05年夏も制し、連覇を達成。夏3連覇こそ早実(西東京)に阻まれたが、高校野球史に校名を太字で刻んだ。プロも負けてはいない。04年に東京から札幌に本拠地を移転した北海道日本ハムは、以降5度のリーグ優勝と2度の日本一に輝いている。


 残るは大学だけ…。星槎道都大の山本文博監督は駒澤大時代に2度、北海道拓殖銀行時代に1度、日本一を経験している。選手の半分は地元出身者。甲子園出場経験のある選手は数人だ。


「ウチの選手は高校時代に日の目を見た子がほとんどいない。だから純粋なんです」。決勝進出の立役者となったエース左腕・福田俊も北海道の出身。神奈川の横浜創学館高を経て同校にやってきた。「パワーはあるがインステップしてふんぞり返るようなフォームで投げていた。“今のままでは上には行けないぞ”と諭し、フォームをなおしたんです。厳冬の空の下、下半身強化のトレーニングを黙々と行っていた。下が強くなったことで制球も安定してきた。将来が楽しみな子です」


 人口減少と少子化により地方の大学の多くが学生確保に頭を痛めている。北海道も例外ではない。「野球部もそうです。欲しい選手はほとんどが本州の大学に持っていかれるのが実情です」。そんな中での準優勝。校名である星槎の由来は天空の星へと漕ぎ出す槎(いかだ)。長さも太さも種類も異なる木々で槎を組む。それはチームづくりそのものである。

 

<この原稿は17年11月22日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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