スポニチのスクープに端を発した大相撲の騒動。外野から眺めている者としては、なかなかに興味深い。改めて日本人の「スポーツ観」のようなものが明らかになった気がして。

 

 日馬富士側に立つ人も、貴乃花側に立つ人も、暴力がけしからんということまでは一致している。ま、このご時世、たとえ痛みに耐えることが仕事の一つといえる格闘技と言えども、暴力を容認してしまったら世間から袋叩きにあってしまうだろうから、これはわからないでもない。

 

 わたしが面白いと思うのは、どちらの側に立つ人にも「力士同士が仲良くなることはよろしくない」との認識があるように感じられるからである。

 

 実に日本人らしい。

 

 なぜ仲良くなってはいけないのか。察するに、ほとんどの日本人にとって、スポーツにおける「試合」が「戦」に等しいからではないか。

 

 相撲に限った話ではない。巨人と阪神の試合は「伝統の一“戦”」である。大きなものが懸かった試合は決“戦”であり、そこで敗因をつくってしまったものには“戦”犯なるレッテルが貼られる。これは後に本当の犯罪を犯してしまう超大物野球選手から言われてハッとしたことなのだが、スポーツの世界に「戦争犯罪人」なる発想を持ち込むのは、おそらく日本人だけだろう。

 

 日本人にとって、試合は戦争に等しい。戦争前に仲良くする人間などいない。よって、けしからんということになる。なるほど。

 

 だが、日本以外の多くの国の人々にとって、試合とは「ゲーム」である。日頃は親しくしていても、ゲームになったら別。だから、草サッカーでも外国人は日本人からすると異様なほどムキになるし、それはプロになっても同じこと。

 

 いや、日本人だってゲームになればムキになる。どれほど親しい人間が相手であっても、わたしは麻雀で手心を加えようとは思わないし、そんなわたしは決して少数派ではないはずだ。もう数えきれないほど「少しは手心を」と涙したことがあるのだから、間違いない。ねえ、Kさん。

 

 だから、試合をゲームだと考える国から来た人たちにとって、試合をする者同士親しくなるのはよろしくないという発想は、結構わかりにくいのでは、と思う。しきたりとか、伝統とかよりもはるかに。

 

 いまから20年ほど前、レアルとバルサのスター選手が一緒に食事をしている姿をスポーツ紙の1面でスクープされ、大騒ぎになったことがある。あのころのクラシコはいまよりもずっと「戦争」に近かった。だから、けしからんと考えるスペイン人は少なくなかった。そういうことなのだろう。

 

 ちなみに、当時の中心選手だったグアルディオラは先週、「ポゼッションが機能しなくなったらどうするか」と聞かれ、「引退する」と即答したらしい。何たるプライド。今年一年で一番しびれた一言だった。

 

<この原稿は17年12月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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