大日方邦子(チェアスキー)第2回「平昌から東京へ」
伊藤数子: 3カ月後には平昌パラリンピックが開幕します。7月に視察へ行かれたと伺いましたが、現地の状況はどうでしたか?
大日方邦子: 競技会場は徐々に整備が進んでいる印象がありました。
二宮清純: 平昌の気候は?
大日方: 雪はもともとあまり降らず、気温の低い場所なので人工雪がメインなんです。2月に平昌オリンピックのアルペンスキーの技術系(回転と大回転。滑降とスーパーGは高速系と呼ぶ)会場には何度かW杯で行ったことがあります。気温についてはこの時期はとても寒いです。春と冬は日本とだいたい一緒です。気象条件は比較的似ているので、長野県の菅平などに近いイメージを持っていますね。
二宮: 同じアジアですし、雪質も似ているのかもしれませんね。ということは、日本の選手は不利にはならないということでしょうか?
大日方: そうですね。日本選手にとっても全く未知の雪質というわけはありません。でも最終的には雪が緩もうとアイスバーンになろうと条件は皆、同じと言えば、同じです。
二宮: サポートシステムとしては日本代表選手の村外支援拠点となる「ハイパフォーマンスサポート・センター」がリオデジャネイロ大会からパラリンピックにも設置されましたが、平昌パラリンピックでは?
大日方: 平昌パラリンピックでも設置されます。選手たちが大会で力を最大限に発揮するためにも重要な機能となると思います。
現実的な目標を
二宮: さて、オリンピックやパラリンピックでは日本選手団のメダル目標を聞かれますね。日本選手団としては、いくつに設定する方針ですか?
大日方: 前回のリオデジャネイロ大会の経験も踏まえ、JPC(日本パラリンピック委員会)の中で慎重に議論しているところです。まずは現場を知る競技団体のメダル目標についての意見・見通しを聞いてから、日本選手団全体の目標を決めることになっています。まだ現段階では決まっておりませんので、1月に選手団の代表選手を発表するときに合わせてお話することになると思います。
二宮: 前回の数字を基準に?
大日方: というよりは各競技団体に現実的な現状分析のお願いをしています。リオパラリンピックの時には金メダル獲得数について高い目標を掲げたものの、残念ながらおよびませんでした。当時一部の方々からは「足元を見ていない数字だ」との批判の声も挙がっていたようなので……。
二宮: あまり高い目標を設定すると、終わった後に「達成していないじゃないか」と言われる恐れもありますからね。
大日方: 予測をするのは大変難しいことなんです。例えばアルペンスキーでA選手はすべての種目に強いオールラウンダーな選手で、5種目すべてでメダルを獲れる期待がある。ただ現実的には、「5種目のうちのどれか2つ」という感覚的な表現は出せるかもしれませんが、どの種目で何色のメダルが期待できるのか、まで言い当てるのは現場に立つコーチたちでも極めて難しい。国民の皆さんに応援してもらうためには目標をしっかり立てた方がいいのですが、現実問題として簡単には出しづらい部分もあります。
二宮: 数字を出すと、どうしても一人歩きしちゃいますからね。
大日方:「ソチを上回る」目標を期待されていると思いますが、ソチパラリンピックの成績は金メダル3個を含む計6個と、かなり良かったんですよね。競技力向上のための助成金も増やしていただき練習環境はよくなっています。その中で選手もコーチもよく頑張っていますが、世界的には若い選手が台頭し、競技レベルもますます上がってきている中で、前回大会を上回るというのは簡単ではありません。そのあたりはしっかりと現実も見ておいた方がいいだろうと思います。個人的には平昌は厳しい戦いになると思います。
伊藤: 2020年には東京パラリンピック開催が決まったことで、日本でもパラリンピックへの関心が高まっています。平昌パラリンピックに注目している人も相当増えていますよね。
大日方: 本当に増えましたよね。我々としてもリオから平昌、そして東京へ、という橋渡しをうまくしていきたいと考えています。「リオの次は東京だ」とよく言われますが、冬季大会でありますが、平昌パラリンピックがその間にあります。平昌出場を目指す選手たちは、パラリンピックで良い成績を上げて、関心が高まったところで2020年にバトンを渡していきたいと考えていると思います。
(第3回につづく)
1972年4月16日、東京都生まれ。3歳の時に交通事故で右足を切断、左足にも後遺症が残る。高校2年の時にチェアスキーと出合い、1994年リレハンメルパラリンピックに出場。1998年の長野大会では滑降で日本人初の金メダルに輝いた。2010年のバンクーバーまで5大会連続で出場し、計10個のメダルを獲得した。1996年にNHKに入局。2007年6月からは電通PRに勤務。2010年9月に代表チームからの引退を表明後は、後進の指導に当たる。日本パラリンピアンズ協会の副会長、日本障害者スキー連盟常任理事(アルペンGM)などを務め、競技普及に携わっている。2013年には2020年東京オリンピック・パラリンピックの招致活動にも関わった。今年6月に平昌パラリンピック日本選手団団長、11月には日本障がい者スポーツ協会理事に就任した。