勝負事でありながら伝統文化でもある。その意味で相撲と将棋はよく似ている。力士にも棋士にも必ず師匠がおり、師弟関係も残っている。正装は基本的には和服だ。


 将棋界で初となる国民栄誉賞授与が内定している永世7冠の羽生善治さんから、次のような話を聞いたことがある。今から10年前、ネット対局がスタートした時のことだ。これに羽生さんは違和感を覚えたというのである。「将棋は駒箱を開けて駒を取り出し、ひとつひとつ並べる。その一連の動作が儀式として成立していて、それをやると場が引き締まるんです」。だがネット対局ではそうした儀式は全く必要ない。


「終わったあとも、普通なら駒箱を開け、駒をしまって相手に挨拶する。そういう一連の動作が済んで、ようやく余韻にひたることができる。そうしたセレモニーが実はすごく大切なんだということに改めて気が付いたんです」。礼に始まり、礼に終わる。それが日本の伝統文化の真髄というわけだ。


 いずれ将棋の世界に外国人が多数参入してきたら、こうした様式美の生成理由をイチから教えなくてはならなくなるだろう。さもなくば禁じ手の「打ち歩詰め」が連発されかねない。即刻、反則負けでは勝負が台無しだ。


 それについて訊ねると、羽生さんは、こう答えた。


「歩で王将をとるようなことは、絶対にあってはならない。もちろん、すでに盤上にある歩を動かして玉を詰めるぶんにはかまわない。でも、持ち駒でやっちゃいけない。合理的理由とかそういうのではなしに、脈々と受け継がれてきた美意識というか、価値観のようなものが(将棋には)あるんです」


 持ち駒の歩を打って王を降参させるのは、たとえて言えば足軽が遠くから鉄砲で馬上の大将を狙うような行為である。


 相撲で言えば平幕の力士が横綱に張り手をかますようなものか。掟破りにして無粋な手だ。一方で横綱の格下力士に対する張り差しは品位に欠ける。そこまでして勝ちたいか、とシラけた気分になるのは私だけではあるまい。


 将棋では対局が終わると、敵味方関係なく駒はひとつの駒箱におさまる。これが「西洋将棋」と訳されるチェスだと別々の箱にしまわれる。果たして角界は、ひとつの駒箱におさまることができるのか…。

 

<この原稿は17年12月27日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから