リトルリーグやボーイズリーグ出身者などを除き、中学野球部の軟式球で育った者は高校野球で初めて硬式球に触れる。硬さ、重さの変化に伴う打球の飛距離やスピード。そういったボールの違いにうまく対応しなければならない。時間がかかる選手も多いなか、河野はあっさりと高校野球に順応した。


「確かに軟式から硬式に変わってすぐはちょっと戸惑いがありました。やはりゴロとかも最初は怖くて。でも、そこまでの変化は感じませんでした。1年生からすぐに試合に出させていただいたということもあって、実戦感覚が身に付いたからかもしれません」

 

 河野は1年生から鳴門高校のレギュラーの座を手中にしたのである。ポジションはサード。慣れ親しんだショートではなかったが、先輩たちを差し置いての先発メンバー入りは、河野の実力を如実に示している。同校野球部・森脇稔監督に大抜擢の理由を尋ねた。「守備力が高かったからです。フィールディングにはまだ課題がありましたが、送球が正確で非常に安定していました。サードがいなかったので、守備の良い河野を1年生からレギュラーとして使いました」

 

 河野自身は起用された理由をこう見ている。
「監督は自分のガッツを見てくれたんじゃないでしょうか。守備も下手でエラーばかりして、バッティングも非力で全然打てなかったけど、気持ちでは絶対負けないという思いでした。試合に出させてもらったからには誰にもポジションを譲りたくなかったんです」
父・幸政の見解も息子と同様だった。「負けん気じゃないでしょうか。上手い下手よりも、監督さんは気持ちを買ってくれたんだと思います」

 

 正遊撃手の座を掴み、いざ聖地へ

 

 そして2012年、2年生になった河野は、ついにショートの定位置を掴んだ。当時の鳴門高のレギュラーは、河野を含めた新2年生が多かった。そのなかで河野は早くも柱になろうとしていた。森脇監督が当時のチームを振り返る。
「新チームから河野をショートにするという構想は早くからありました。この年のチームの内野はファーストの杉本京太以外は2年生だったんです。キャプテンは杉本でしたが、河野には“お前が遠慮せんと引っ張っていけ”と言っていました。彼は周りを引っ張る力と、洞察力があった。監督はこういうことを望んでいると察知し、みんなに伝えるとかね。河野のリーダーシップは歴代でもトップクラスやね」

 

 鳴門高は、2012年の春・選抜高等学校野球大会(以下センバツ)への切符を手にした。夢の舞台・阪神甲子園球場に、河野は選手として初めて足を踏み入れた。「大きさにも圧倒されたし、とにかく感動しましたね」。父・幸政にとっても念願だった聖地でのプレー。「こんなに簡単に達成するのかとも思いました。まさか甲子園に行くなんて……。夢を現実にしてくれたなという感じでした」

 

 甲子園デビュー戦となった2012年センバツ1回戦の兵庫・洲本高戦は、河野の野球人生におけるターニングポイントだった。
「1回表にいきなり自分にゴロが飛んできました。ボテボテの難しい打球でしたが、前に出て、アウトにできたんです。多分ボールを待っていたらセーフになっていたでしょう。あのプレーで気持ちが楽になった。試合前のノック時は浮足立って全然ボールを捕れなくて。あんなに大観衆の前で野球をやるのは初めてでしたが、初回以降はそれほど緊張しないでプレーできました。あの1試合で自分の野球人生が変わりました。あの経験が、のちに東京六大学という大舞台でもどっしりとした気持ちでやれていることにつながっていると思います」

 

 この試合は1対1のスコアのまま延長10回にまで及ぶ熱戦となった。10回裏に鳴門高が1点を奪ってサヨナラ勝ちした。勝負を決める一打を放ったのが河野だった。
「ネクストバッターズサークルにいるときに、“これ打ったら明日の新聞の1面やな”という感覚でいたことは鮮明に覚えています。初球を振り抜いて左中間へ打ったのですが、これが僕の持ち味なんです。積極的に手を出していなかったら恐らく結果は出ていなかった。あの日はそれまで全然打てていなかったのですが、最後の最後で自分の打撃ができた。本当に自分にとって洲本戦は大きな1試合でした」

 

 続く栃木・作新学院高戦も延長戦で制した鳴門高は、ベスト8まで勝ち進んだ。同年夏も甲子園に出場し、初戦で敗れはしたが熱戦を演じた。河野は2年生ながらチームの主力となった。大舞台の経験をふんだんに積み、最終学年となる2013年を迎えた。
河野は新チームで満を持してキャプテンとなり、名実ともに鳴門高の大黒柱となっていく。森脇監督の言葉が彼の位置づけの全てを物語っていよう。「自分からキャプテンをやりたいと申し出てきました。こちらも河野しかいないと思っていました」

 

 磨かれた「心・技・体」

 

 2013年センバツ。河野は全国から注目の視線を浴びることとなった。選手宣誓の大役を引き当てたのである。父・幸政が面白いエピソードを語った。「その日、家を出る時に本人が“開会式の宣誓を引いてくるわ!”と言って出て行ったんです。そうしたらホンマに引いてきた。私も現地に観に行ったんですが、私の方が緊張しました。よくあの場所であれだけ喋られたなと、感心しました。だいぶ成長したんだなと」
 
 河野自身はというと、何と本番は緊張しなかったという。
「引き当てた時は、これは試合どころではないと思い、プレッシャーをとても感じました。文章を監督、野球部長と相談して決め、とにかく練習したんです。でも本番はそんなに緊張しなかった。結構落ち着いて話せたことを覚えています」

河野主将率いる鳴門高は2回戦から登場し、栃木・宇都宮商を2対1で撃破したが、3回戦で福島・聖光学院高に3対4で惜しくも敗れた。それでも前年の甲子園を経験した2年生が3年生となり、着実にチーム力を上げていた。
 
 中でも河野は技術的に長足の進歩を遂げていた。元々定評のあった守備をさらに徹底強化したのだ。それはなぜか。
「守備を買われていたのですが、2年生の時に秋の県大会、四国大会含めて自分だけで7個もエラーをしたんです。それをきっかけに“これではダメだ。このままでは自分のミスでチームが負けてしまう”と思って。以来、毎朝1箱ノックを受けてから学校に通うようにしたんです。とにかく守備は数を重ねて練習したので、“これだけやったから絶対大丈夫”という自信を持って試合に臨めるようになりました」
 
加えて河野は、鳴門高独自の守備練習が上達につながったと語る。
「鳴門のノックには普通の学校がやるようなノックがないんです。鳴門では、実戦形式のバッティング練習をする時に守備につき、ランナーもつけて行います。ですから走者は1球1球、実際の試合のようにスタートを切るわけです。通常のノックだと誰に飛んでくるのかが分かるのでブロック的な練習になってしまいがちですが、この守備練習によって実戦感覚が磨かれました。それが自分の守備にとってかなりプラスになったと思います」

 

 大舞台で飛び出した「理想の打撃」

 

 2013年夏の甲子園。心身共に充実した河野が牽引する鳴門高は快進撃を見せた。1回戦の石川・星稜高戦を12対5で突破すると、2回戦の東東京・修徳高戦は延長10回の末6対5で競り勝ち、3回戦の静岡・常葉菊川高戦は17対1で圧勝した。

 

 ベスト4をかけた準々決勝は岩手・花巻東高を迎えた。花巻東高はのちに北海道日本ハムファイターズ入りを果たす岸里亮佑、“カット打法”で注目を集めた千葉翔太を擁していた。特に身長156cmと小柄ながら抜群のミート力を誇る千葉には各投手が苦戦を強いられた。鳴門のエース板東湧梧も例外ではなかった。6回表、千葉に8球を投じた末に四球を許し、続く岸里に2ランを浴びた。


 しかし鳴門はその裏に3点を奪って逆転に成功。1点リードのまま迎えた8回表、またしても先頭の千葉に四球を許してしまう。その後、2死二塁となり、5番バッターが放った打球は一塁線へのゴロ。誰が見ても打ち取った当たりだった。キャッチャーの日下大輝はベンチに戻る準備をしていたという。河野も同様だった。「打った瞬間ファーストゴロやと思って、ファーストのベンチに流れるように走っていました」

 

 ところが、不運にも打球はファーストベースを直撃し、一塁手の頭を越えていった。同点のランナーが還った。気落ちした板東は連打を浴び、2点を追加された。
この試合を現地で観戦していた父・幸政は、「これが魔物か」と改めて甲子園の恐ろしさを思い知ったという。

 

 1点を追う鳴門高。9回裏、最後の追い上げを開始する。9番バッターから二者連続四球。送りバントで走者を進め、1死二、三塁という絶好の場面を作ったのだ。打席に入るのは3番バッターの河野。この試合最大のクライマックスである。
「前進守備でしたし相手は左投手。ピッチャーの足元へ打つ。そこに全神経を集中させていました」。1球目、アウトコースやや高めのボールを冷静に見逃した。そして2球目、真ん中低めのストレートを河野のバットが捉えた。

 

「自分の中で完璧。まさに理想のバッティングでした。イメージ通り、ピッチャーの足元に強い打球を打ち返しました。今でもはっきり覚えているんですけど、自分の中ではピッチャーの股の間をボールが抜けていくイメージなんですよ。だけど上からグローブがパサッと降りてきて、その一瞬が滅茶苦茶スローに感じられました。これは抜けたと思っていたら、捕られていたんです」

 

 河野が放った鋭いピッチャー返しは、相手投手のファインプレーによりピッチャーゴロとなった。三塁走者が三本間で挟まれタッチアウト。その間に走者が進塁し、2死二、三塁とチャンスは続いたが、6番バッターの日下がサードフライに倒れ、鳴門高は敗れた。

 

 河野の脳裏にはこのシーンが未だに焼き付いている。この敗戦の悔しさが彼の中で癒えることはない。「抜けていれば多分僕らが勝っていました。もっと上にみんなと行きたかった。普通にやっていれば行けていたはずなんです。でも負けたということは何か理由があるので、この経験を上のレベルで活かしていこうと強く思いました」

 

 甲子園に育てられたキャプテン

 

 1950年以来となる63年ぶりの8強入りを果たしたところで鳴門高の夏は終わった。キャプテンとしてチームをまとめた河野の成長について、森脇監督は目を細めた。
「試合になったら本当に彼が引っ張ってくれて、そういう意味では“河野のチーム”と言ってもよかった。ですから彼が自分自身の成績が悪くて落ち込んでいたら怒りました。“チームのために声を出してやらなければいけないぞ”と。常々そういう指導をしていました。その成果が大事な試合でも活きました。ピッチャーが打たれた時も、チェンジになってベンチに帰る時に河野が大きな声で“まだまだ大丈夫だ、行くぞ!”と励ましていた。みんながベンチに帰ったら私が言おうかなと思っていた場面でも、河野が先にチームを盛り上げてくれた。それで士気が上がったのです。本当にリーダーシップのある良い選手になりました」

 

 父の幸政も息子の成長ぶりを褒めたたえた。
「甲子園で勝つ、勝ち続けるというのはすごいことだと思います。勝つたびに成長するというか。甲子園が育ててくれたという言葉が一番合うと思います。それは生で見ていて強く感じたことです」

 

 あまりに濃密だった河野の高校生活も終わりを迎えようとしていた。秋のプロ野球ドラフト会議に向けたプロ志望届は提出しなかった。だが「上のレベルで野球を続けたい」という一念が胸の中で燃えていた。父・幸政も息子の思いを感じ取っていたという。「実際、大学進学も家族全員が迷っていました。とにかく本人のなかに大学と社会人、どちらに進むにしても野球を続けたいという強い気持ちがありました」

 

 天性のリーダーシップを有する好守好打のショートストップ。そんな河野の存在に一際注目していた大学があった。東京六大学の名門・明治大学だ。河野は全国区の舞台へと足を踏み出した。そしてその先のステージへと進む旅が今、始まろうとしていた。

 

(第4回へ続く)

 

河野祐斗(かわの・ゆうと)プロフィール>

1995年8月25日、徳島県鳴門市生まれ。小学1年で野球を始める。林崎小、鳴門第二中を経て鳴門高に進学。1年生からサードでレギュラーの座を掴む。2年春にショートのレギュラーとして、初めて甲子園の土を踏んだ。3年時にはキャプテンとして春夏の甲子園出場。夏の甲子園では攻守の軸として、63年ぶりのベスト8進出に貢献した。高校卒業後は東京六大学野球の明治大に進学。好守の内野手として活躍した。卒業後は日立製作所への入社が決まっている。攻守で気迫を前面に押し出すプレースタイル。身長173cm、体重74kg。

 

(文・写真/交告承已)

 


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