1991年は日本サッカーの次世代への胎動の音が大きくなった年であった。

 

 2月にプロリーグに参加する10チームが決定した。後にこれらは「オリジナル10」と呼ばれることになる。その内訳は、(日本サッカーリーグ)JSL1部から古河電工、三菱自工、読売クラブ、日産自動車、全日空、トヨタ自動車、松下電器、マツダの八チーム。2部から住友金属、そして静岡の清水FCを母体とする新チームである。

 

 そして6月、2002年ワールドカップ招致委員会が設立。本格的にワールドカップ招致活動が始まることになった。7月にはプロリーグの正式名称が「Jリーグ」に決定した。11月に社団法人日本プロサッカーリーグが設立、初代チェアマンに川淵三郎が就任した。

 

 この年、稲川朝弘は約2カ月に渡るブラジル視察から日本に帰国した。ブラジルには面白い才能がたくさんいることが分かった。彼らをプロ化するクラブに売り込めば、ビジネスになるはずだった。

 

“大人の世界”の壁とは……

 

 稲川の念頭にあったのは読売クラブだった。

「やるならば日本一のクラブから始めようと思ったんです。自分はジャパン・スポーツ・プロモーション(JSP)を辞めているので、彼らが付き合いのあるクラブに行く気はなかった。読売クラブにはJSPは出入りしていなかったので」

 

 日本一のクラブ――読売クラブは、JSL1部リーグの90-91年、そして91-92年シーズンで2連覇していた。JSLは91-92年シーズンを最後にJリーグへ移行することになっていた。

 

 このとき読売クラブは黄金期を迎えようとしていた。ラモス瑠偉、戸塚哲也、加藤久、三浦泰年、堀池巧、武田修宏、そして三浦知良――。プロ野球の読売巨人軍と同様に、全国区のスター選手を揃えるというのが、親会社の読売新聞の意向だった。

 

 稲川は高校時代に読売クラブの入団テストを受けたという縁もあり、クラブのフロントにいた小見幸隆たちと付き合いがあった。ただし、そうした付き合いとビジネスは違うものだ。稲川は“大人の世界”の壁にぶつかった。

 

 三浦泰年、知良・父、納谷宣雄が読売クラブの代理人としてブラジル人選手、監督の契約を一手に引き受けていたのだ。

 

 納谷は1941年に静岡市で生まれている。スポーツ用品店などの経営を経て、82年9月にサンパウロに渡った。そして息子の知良を呼び寄せ、プロ契約を結ばせている。

 

 ある時期までの知良は、納谷の創造物であった。

 

 納谷がブラジル国内のクラブと交渉し、ドリブルの巧みな、この次男を売り込んだ。そして知良はそれに応えた。

 

 同時に納谷は日本からのサッカー留学生の受け入れを始めている。ポルトガル語は堪能ではなかったが、納谷には押しの強さと愛嬌があった。そして有力者や権力者の意向で全てが決まる“人治主義”がはびこるブラジルは彼の性に合っていた。納谷はあっという間にブラジルサッカー界にしっかりと根を下ろしていた。

 

 そして、彼は読売クラブの上層部と深い関係を築いていた。何ら実績のなく、まだ若い稲川が対抗できる相手ではなかった。

 

 ただ、納谷が手をつけない種類の仕事もある。それが稲川の前に転がってきた。

 

 争奪戦の末、石川獲得

 

 石川康の移籍だった。

 

 石川は1970年、ボリビアのオキナワ移住地生まれのディフェンダーである。両親は

沖縄県からの移民だった。ボリビアは南米大陸の中では埋もれた存在である。ただ、ブラジルやアルゼンチンなどの技術の高い代表、あるいはクラブチームと戦う機会があり、しぶといサッカーが染みついている。そのボリビアで石川は早くから頭角を現した。

 

『アカデミア・タウイチ・アギレラ』に入り、16才以下のボリビア代表の一員として『ワールド・ジュニア・ユース』に出場した。その活躍を見込まれ、88年に埼玉県の武南高校に3年生として編入。高校選手権でベスト8に進出する原動力となった。そして高校卒業後はJSL1部の本田技研サッカー部に入っていた。

 

 すでに本田技研はJリーグに参加しないことを表明しており、主力選手にはJリーグ参入クラブから声が掛かっていた。バルセロナ五輪予選の代表メンバーに選ばれていた石川も例外ではなかった。

 

 稲川は読売クラブの代理人として、石川に会いに行った。

「すでに石川はガンバ(大阪)か(鹿島)アントラーズだとスポーツ紙には出ていたんです。まずは石川には読売クラブ、つまりヴェルディのことを理解してもらいました。企業のサッカー部ではなく、最初からクラブとして立ち上がっているので、プロのサッカークラブとしての体制が整っている。そして読売新聞が親会社で資金的に余裕があるということです」

 

 石川が稲川の話に耳を傾けたのは、意外な理由だったという。

「ヴェルディがぼくという代理人を立ててきたことが彼にとってはプロっぽく映ったようです」

 

 アカデミア・タウイチ・アギレラ時代の同僚には、後にワールドカップにボリビア代表の中心選手として出場する、マルコ・エチェベリアやエルウィン・サンチェスがいた。彼らのような原石には早くから代理人が接触するものだ。ボリビア生まれの石川にはそうした経験があったのだろう。

 

「いろいろと話をして、とにかく強化(担当者)と会わせるところまで持っていきました。読売クラブ側は、交渉前に石川の年俸について調査していました。最初の年俸提示のときにその数字をぽーんと机の上に出した。(交渉の途中で)小見さんはわざと社長に電話を掛けて“もう500万円上げてもいいですか”って話をしたんです。そうしたら、石川は“ヴェルディって凄いや”となりますよね」

 

 92年5月、ヴェルディは石川、そして日産自動車から柱谷哲二の獲得を発表した。9月からJリーグの前哨戦となるナビスコカップが始まった。この大会でヴェルディは優勝。Jリーグの熱狂の中に突入して行くことになる――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


◎バックナンバーはこちらから